09/18/06

未決勾留の施設(拘置所)巣鴨プリズン

いろんな事情がありましたが、現在では、兎も角、未決施設を行刑・・刑務所を所管する法務省が管理し、刑務所に拘置所を併設しているので、一般人には江戸時代以来の刑の先取りの必要性の刷り込みと相俟って、刑務所と未決拘禁施設の区別が分かり難くなっている面があります。
未決拘禁を裁判所でなく、行刑官庁が管轄していることも、国民に対して刑の先取りの印象・教育効果を強める原因になっていると言えるでしょう。
しかし、法理念上は、刑が決まってから刑に服する場所である刑務所とは別の組織であることを明らかにするために、拘置支所という別の名称になっています。
宣伝文句を大きく書いて、注意事項を豆粒程小さく書いているのと同じやり方です。
警察の留置場も、法的には代用監獄であって、法務省の代替施設として預かっているだけですが、大きな看板や説明書きを張り出していませんので、一般人は警察の権限で捕まえたり、捕まえれば好きなように取調べが出来るような印象を持ってしまうのです。
実際に、戦前はそうしていましたが、戦後も警察に留置する体制が続いているので、そういうことが許されなくなったことが分かり難いのです。
(こう言う誤解した刷り込みがあった方が、逮捕されれば何を言っても誰も聞いてくれないと言う諦めが先に立ち、警察の調べに対する抵抗感がなく調べやすい・・自白を取りやすいでしょう。)
ちなみに、現在の小菅の拘置所は、元小菅刑務所だったところです。
巣鴨の拘置所は、今の池袋東口から日の出町の交差点(今もあるかどうか知りませんが・・)を左に入ったあたりにあって、私が池袋に住んでいたころに、(今から考えればホンのすぐ近くでしたが、子供にとっては結構遠いところでした)何かの用があって、その前に行ったことがありました。
そこの一角は、普通の住宅地とは変った雰囲気で、レンガ造りの門塀とその周辺に官舎などが並んでいました。
(極東軍事裁判のころには、巣鴨プリズンと英語表記された所で、レンガ造りだったこの施設で、いわゆる戦犯達が収容され処刑されたのです。)
もちろん、そのころには自分が将来弁護士になることなど、夢想だにしていませんでしたから、単に別世界の雰囲気だったことを記憶しているだけです。
昭和40年代の何時だったかに、巣鴨拘置所が廃止されて、(そのころから都内の大きな工場が地方へ脱出することが多くなりましたがその政策の一つだったのでしょうか。)小菅刑務所へ移転し、小菅刑務所から小菅拘置所へと変更されたのです。
その移転跡地の再開発で、現在の池袋のサンシャイン60と言う大きな複合ビルが建設され、この辺まで池袋の町並みが広がったのです。
それまでの池袋東口は、駅前広場に面した三越、丸物(これはいつも間にかパルコになってしまいました)、西武の3百貨店とそのホンの周りくらいしか町並みがなかったのです。
小菅刑務所の機能は、そのころに出来た西那須野から車で30分ほど入った黒羽の刑務所に移転しました。
昭和47年頃に、この黒羽刑務所を見学したことがありますが、当時この刑務所は最新式で、立派な運動場もあり、当時先端技術であった写植工場があって、そこで服役者が技術習得に向けて働いていました。
服役者の自治的な放送設備もあって、彼らが自主的に運営していました。



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