09/30/05
科挙7(朝鮮の場合1)両班
科挙の制度は、中国では1905年まで続いたのですが、中国でこんなに長く続いたばかりか、朝鮮民族はこれを採用してずっとやってきたのに、わが国では、明治政府による高等文官制度(明治30年)まで採用されなかったのは何故でしょうか?
或いは、何故明治になっていきなり採用することになったのでしょうか?
ついでに、朝鮮での科挙制度の採用を見ておきましょう。
高麗が国家を建設する時、唐・宋の官僚制度を参考にしながら、文臣(文班)と武臣(武班)の二つの班からなる官僚制度を採用したのが、両班(やんぱん)の始まりと言われています。
文班(文臣)は、958年から科挙制度を採用し、科挙の合格者を官吏として登用する制度となりますす。
しかしながら、実際は五品以上の上級文臣の子は自動的に官吏になれる「蔭叙』(ヤミ?出世)が行われ、当初から上級官僚の貴族化を促していったので、高麗では、本来の能力主義を徹底する科挙の意義を没却していたのです。
ですから、両班は元々単なる官僚組織を意味していただけで、特権階級を意味していたかどうかさえ怪しいのですが、この蔭叙制度の特権で、次第に特権階級を表すようになったものでしょう。
新羅以来の「郷里」と言われる有力者達は、多くの官僚を中央にも輩出していて、これらの層も別に高麗の門閥貴族を一方で形成します。
武班(武臣)は、995年ごろに六衛(軍団)が整理されたのを起源とし、この武班は基本的に世襲制もしくは兵士からの選抜制に成っており、科挙とは関係がないでしょう。
両班には国から田地と柴地が支給されており(田柴科制度と言う)、官僚機構を指す言葉でした。この武臣は、もとは文臣の下位にあったのですが、クーデターで、武臣による実力支配に移り文臣が息を潜めていました。
高麗が元の支配下になって、この武臣系は、元の侵攻に対しまともな反撃が出来ず信用をなくし、そのご、反乱を起こしたものの元に鎮圧されて勢力喪失してしまいました。
高麗末期から台頭していた中小地主層が、李氏朝鮮樹立の支持母体となったことから、高麗時代からの文臣と一緒に李氏朝鮮時代の両班になるのです。
関連ページリンク
稲垣法律事務所コラム内:役人,官僚に関するコラム
©2002,
2003, 2004, 2005, 2006 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design
/ Maintained by Pear Computing LLC
