09/29/05
急激な改革と短命政権( 秦・隋、平家、織豊政権・・ナポレオン)
明治政府も漢の劉邦も、政権はどん底の財政状態で樹立されているのです。
どん底の財政状態で、燎原の火のように反乱が起きて、それを何十年、うっかりすると何百年単位もの長い間、戦乱で混乱した挙句に、新政権と言うものが生れるのです。
(後漢末の黄巾の乱から数えて、隋の統一まで約500年かかりました)
そういう新政権にお金がある筈がないのですが、それがうまく行くのは別の要因があるからです。
もっと別の目で見れば、短期間での改革を急ぎすぎたのが、致命傷になった可能性があります。
これは長い春秋戦国時代に幕を引いた秦帝国が短期で崩壊し、(秦BC221〜202前漢)わが国では平安時代の幕引きになった平家の天下が短期(保元の乱=1156〜平家滅亡=壇ノ浦合戦=1185)で終わり、戦国時代に幕を引いた織豊政権も短期(足利義昭追放=1573〜本能寺の変=1583〜関が原合戦=1600)で終わったのと同じです。
ナポレオンも1799年 ブリュメール18日のクーデターによって統領政府を樹立後第一統領となってから、エルバ島に流される1814年までの短命政権でした。歴史の偶然と言えば偶然ですが、過渡期の政権が隋(589年〜618年)を含めて、いずれも20年前後の短期間で終っているのは、それなりの必然性があったと言うべきでしょう。
(織豊時代だけ30年前後になりますが、はっきり天下人になったのは、秀吉が徳川と織田信雄連合軍と小牧、長久手で戦ってからでしょうから、矢張り20年くらいしかないのです。)
隋だって、禅譲を受ける前(そのまえから事実上の支配者になっていたから譲り受けるのです)から、数えればもっと長くなります。
律令制は社会実質の変化に直結しますので、早くから崩れましたが、科挙の制度は専制君主制に便利な人材登用制度ですから、社会実質が少しくらい変動してもびくともしません。
科挙の存続可能性は、これを必要とする専制君主制が続いていたかどうかにかかっていたのです。
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