09/26/05

科挙の意義1(能力主義社会)隋の文帝

ところで、九品中正法があろうとなかろうと、およそ、政権は政権樹立の功労者の子孫による門閥政治になるのが普通です。
徳川時代は、その時の活躍にあわせて石高や家格が決まり、明治維新まで続くのです。
それを避けるために隋の文帝(楊堅(541〜604)が、試験による官吏登用制度(選挙制度)として始めたのが、科挙の始まりと言われています。
文帝は、開皇律令という律令法典の完成者としても名高い人です。
この業績から文帝と贈り名されたのでしょう。
隋と言えば煬帝ばかりが有名ですが、隋の創始者である彼は、日本で言えば信長のような役割を果たした大人物と言えるでしょう。
これを継いだ煬帝も大運河を建設するなど破格の人材ですが、それだけに急進過ぎて国民がついていけなかったのか、信長同様に政権は短命でした。
西晋滅亡後273年と言う長年の戦乱を経て、(後漢末の黄巾の乱以降で言えば、約500年です)天下統一に向かう直前の時代精神の体現者というところです。
このときに20世紀まで続く(律令体制と科挙制度)中国の骨格を定めた大人物と言うことになるのでしょうか?
ところで、律令体制と、科挙の2大制度の創始者と言うと凄いようですが、よく考えてみると、専制君主制の完成形態である律令制を完成・実行するには、優秀な官僚制もセットでなければ、うまくいかないので、必然的副次産物だったと言えるでしょう。
もっとも律令体系も魏のあたりから少しづつ姿を現していたのを、隋の文帝が集大成したに過ぎませんし、この人材登用システムも、この戦乱(五胡16国といわれる入り乱れた時代です)の過程で実力主義の思想が徐々にはぐくまれていた結果かもしれません。
私の考えでは、隋の文帝はこの約500年の戦乱の集大成をしただけであって、その先1300年も見通した・・拘束すべき制度ではなかったと思います。
戦乱の時代の結果を合理的体系に完成しただけなのに、これを1300年も続けた社会の方に問題があるでしょう。



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