09/26/05

農業社会と政治1(詩歌管弦の道)竹林の七賢

平安時代の朝廷の外部に対する仕事は、対外軍事行動(蝦夷征伐)の外は、内政に関しては、比ゆ的に言えば、暦を配ったり国分寺を立てたりする程度しかなかったでしょう。
08/15/05「気象台から気象庁へ(治山治水の必要性1)」のコラムで書きましたが、治山治水の仕事も
わが国では関係がなかったことを、少し書きました。
その続きをそのうちに書きますが、余談の迷路にはまっています。
わが国では、大きな川のほとりには住んでいなくて、小川の周りに住んでいましたので、治山治水の事業の価値は信玄堤のころまでなかったのです。
ところで中国で有名な科挙の制度ですが、科挙が始ったのは、隋からで、唐代始めから定着していくのですが、その試験科目の中心は四書五経の丸暗記が基本であったと言われ、中でも詩文の才が重く見られていたと言われます。
わが国同様に、農業化が進んできて、するべき政治がなくなっていたからではないでしょうか。
そうは言うものの、実際の科挙はどう言うものであったかについて、少し見ておきましょう。科挙の制度は、魏の定めた九品中正法が門閥貴族の横行を許した弊害の反省から始ると言われます。
竹林の七賢の故事を思い出してください。
彼らは西晋の門閥貴族出身で清談にうつつを抜かしていたのですが、国の存亡に際し、全く役立ちませんでした。
ただし、彼らのために弁明しますと、これまで書いているように、このころは中国でも対外軍事行動以外に当時の政府は、何もすることがなくなっていたのです。
武人以外の貴公子にとっては、やるとすれば宮廷内の足の引っ張り合い位でしたから、これを潔しとしない道義心の高い人が集ったのが竹林の七賢です。
清談とは文字とおり、政治家特有の権力争いにまつわる(汚い?)話題ではなく、清い話ばかりしていたと言うわけです。
その分、浮世の役には立ちませんでした。



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