09/23/05

独自日本の形成7(万葉集4)日並の皇子

壬申の乱の勝利で、九死に一生を得た持統天皇は、(いったんは、吉野の奥に大海人の皇子とともに落ち延びた落人でした。)夫の死後、その地位保全に必死でした。
その必死の時代精神を風化させまいとして、同じ時期に今で言う所の軍事演習をしていたのです。
成長した最愛の息子を、この軍事演習に参加させた持統天皇は、その様子や如何にと報告を待ちわびています。
そこへ、宮廷歌人柿の本人麻呂の歌一種と言う場面です。
    「日並の皇子の命(みこと)の馬並(な)めて」
夜明け前の黒々としたしじまの中で、甲冑に身を固めた日並(ひなみし)の皇子は、兵士とともに馬を並べて、その「とき」を待つ緊迫した瞬間を描きます。
ちなみに、当時は平安時代以降のくわ型打った形式の鎧兜と違い、まだ中国式の甲冑兵の集団であったでしょう。
この「とき」とは、
     「 御狩立たしし」「とき」
と言うのですが、「御狩」とは、動物の狩ではなく、故大海人の皇子がついに決起した軍事行動を文学的に表現したものでしょう。
大海人の皇子が決起した瞬間・出陣した「とき」を言うのです。
「立たしし」とは過去形ですから、「立ったとき」、壬申の乱で大海人の皇子が出陣した・そのときが刻刻と迫っている様子を描いたものです。
そしてついに
      「ときはきむかう」
と言う粋な表現(私はこの表現が、とてもイカスと思っています。)で表すのです。
日が昇る瞬間、まさに「ときは来向かう」・・刻刻と迫ってくる様子を、固唾を飲んで見守っている緊迫した情景が描かれます。
ただそれだけでなく、その瞬間に歌人が、いきなり場面の転換を図ります。
暁の日が昇り始めた東には陽炎がたちこめ、西の方を
      「かえり見すればつきかたぶきぬ」
と言う有名な描写になるのです。
(蕪村の「月は東に日は西に」の逆風景です)
情景描写だけなら、それだけの詩でしかない(と私は勝手に思う)のですが、上記の刻刻と迫る出陣を待つ直前の緊迫した情景と一体になってこそ、詩がぐっと引き立つのです。
持統天皇から絶賛された様子が、目に浮かんできます。
柿本人麻呂が宮廷歌人といわれる所以でしょう。
(何かの本で読んだと思いますが、殆ど全部が受け売り+私の想像による解釈ですから念のため・・・)



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