09/23/05
独自日本の形成5(万葉集1)やまとごころ
五七五を基本とする万葉集の短歌、長歌、反歌などの形式が、いつ出来たのか知りませんが、万葉集を編集できたこと自体から、わが国の独自文化が凝縮しつつあったことが分ります。
もっとも五七五の字数だけを見れば、それ以前から漢詩も五言絶句とか七言律詩などありますし、ずっと前からじわじわと浸透していたでしょうが、詩歌と言うのは、今では目で文字を読みますが、本来は声に出して歌うものでしたから、漢字の数ではなく音の数が重要でした。
ですから、漢詩が伝わっていたとしても、日本語読みしていたとすれば、音の数では五七を基本とするものではなかったのです。
有名な孟浩然の絶句を見てください
春眠不覚暁
処処聞啼鳥
夜来風雨声
花落知多少
これは五字ばかりで五七五という順序ではありませんし(七言律詩も七言ばかりの連続です)、この読み方は、ご承知のように、「しゅんみんあかつきを覚えず・・・・・・」ですから、音の数は五七五を喜本にしていないのです。
日本の五七五の基本形は、漢詩とは違う別の体系として生れたものだと思うのですが、これも素人判断に過ぎません。
また反歌と言うのも、珍しい形式だと思いますが、如何でしょうか?
しかも、詩心はそれまでに伝わっていたであろう角張った漢詩や詞文に比較して、「大和ぶり」というかやさしい日本列島の気候風土そのままに「たおやめぶり」が顕著です。
こうしてみると、これだけの歌がいきなり数十年で完成できるわけがないので、既にわが国は、白村江の戦のかなり前から独自の気風が育っていたと見るべきでしょう。
聖徳太子のころ(世紀600年前後ですから、白村江の戦の約60年前です)から既に独自性主張の気風になっていたことを、09/20/05「遣唐使の役割2(孤立と独立)」のコラムで紹介しましたが、その下地として気風自体がかなり前から違ってきていたのでしょう。
この面・・人情や考え方からも、中国や朝鮮と一緒にやっていけない下地が出来つつあったと思われます。
前置きはこのくらいにして、壬申の乱と万葉集の関係に戻りましょう。
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