09/19/05
遣唐使1(朝鮮半島南部は日本の領土だった?)
商業・・交易が先にあって、その後に農業社会が来たことを説明しているうちに、かなり話が逸れてしまいました。
09/05/05「商業主義(王権)から農本主義(武家政権)へ1(白村江の戦)」の続き、天智天皇の列島防衛・鎖国政策に戻しましょう。
学校では、遣隋使や遣唐使の往来で、初めて大陸の進んだ文物を輸入したかのような教え方をします。(そのように断定して教えているのではないですが、そのような印象を抱かせるような教育をしていると思うのです)
しかし、落ち着いて考えてみると、実は卑弥呼以前から、当時は国境も民族意識もなかったのですから、自然の往来があったのは当然です。
古代には、そんな広域の交易はなかったと思う人が多いでしょうが、倭王「武」すなわち雄略天皇(と言われています)あたりまでは、中国の支配下の蛮族として王に任命されていたのです。
魏志倭人伝に卑弥呼が「親魏倭王」と記載され、福岡市で出土した「漢の倭の奴の国王の金印」など、有名なところでも分るでしょう。
ご承知のように倭の国は百済とのあいだに同盟関係があって、上記倭王「武」の上表分にも百済と同盟していて高句麗と戦っていた様子が報告されていますよ!
古代の方が、今の日本と朝鮮よりも、密接に往来していたのです。
倭王武の上表分は、中国の魏晋南北朝の南朝の最後を飾る「宋」の皇帝?順帝に提出されたもので、これが残っているのですが、こうして活躍した功労で?順帝から、
「詔して武を使持節都督倭・新羅、任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に除す」
と言うことになっているのです。
古代史は専門ではないので(勿論全部そうですが・・・いつも書くとおり思いつきばかりの、コラムです。)無責任に書きますと、そのころには、日本の雄略天皇は朝鮮半島の南の方一帯の王に任命されていたのです。
これこそ、朝鮮では絶対に認められない歴史認識でしょう。
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