09/17/05
新興宗教の必要性(末法思想)2
新しい宗教の求められた時代を歴史上見てみると、第一回は、聖徳太子時代の仏教の輸入でしょう。
しかし、これは、民衆の不安を救済するためではなく、主として為政者の都合で取り入れたものでしょうから、今回の参考には、あまりならないと思います。
その次の大仏開眼はどうでしょうか?
このときは、国策とは言え、行基菩薩の活躍で知られているとおり、底流には民衆救済・・衆生済度の目的がかなり濃厚です。
しかし、この時代には地域の神々が健在ですし、そのうえに、一族や村落の相互扶助も強固でした。
その上、聖徳太子のころ同様に、各地の多様な神々を否定して、仏教思想によって全国の思想統一をしようとする支配意思の完成とも評価できます。
民衆の需要があったという印象付けは、後世のでっち上げの可能性があります。
矢張り今回参考になるのは、個人が前面に出て来はじめて、末法思想が流行した平安末からの世相でしょう。
武士の勃興は、今で言うところの実力社会、自由競争社会の到来ですから、強い「個」を持っている人は、中世発達した禅宗などの自己鍛錬や芸術作品等で自己の強化を図れたでしょう。
しかし、社会と言うものは優勝劣敗で行けば、「負け組み」の方が圧倒的に多くなります。
以前にも書きましたが、優勝劣敗の思想では、落ち着く所が有りません。
ちびっ子野球で優秀選手だった子が、中学高校と進むうちに落ちこぼれになって、親の期待に反して不良になってしまう事例を、05/24/02「社会の高度化と不良対策 4 (スポーツ少年1)」以下の連載で紹介したことがあります。
ある競争で勝ってエリート中学に入学しても、その勝ち組みグループでの競争があって、(エリート中学内での)そこで、また勝ってもその先に(エリート高校での)価値組み同士の競争があり、これが大学に入っても競争があり、勝ち残って大学院に入ってそこの競争で勝って、その先、学者になっても、競争は永久に続くのです。
(国立大学も独立行政法人になって、競争原理が導入されました)
高校野球のトーナメント戦と同じで、優勝者以外は全部負けるしかないのです。
競争社会とは、これを徹底すれば負け組み製造社会の謂いです。
勿論、プロ野球のレギュラーまで行けば、勝ち組みまで行ったと評価されるでしょうし、その他の企業人でも一定の地位・・・重役や部長クラスまで行けば、「まあ良いか」という世界でしょう。
このように、「まあ良いか」と言う世界が、高度成長期まではかなり幅広かったのですが、中間管理職の激減に比例して、成功者といわれる「帯」に入れる人が、激減しているのが現在或いはこれから到来する社会です。
大手企業でも大手何社と言うのではなく、その業界トップくらいでないと2番手3番手では生き残るのが困難な時代がきているのです。
競争が激烈になると、程ほどの競争でなくなって、最後まで戦うとなればトップだけが生き残って、その他は淘汰される時代が来るでしょう。
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