09/09/05
ローマ帝国の滅亡4(ゲルマン民族の台頭1)
ゲルマン族が野蛮で、強かっただけでローマを滅ぼしたのではなく、ローマ帝国は周辺諸民族と技術・文化格差が縮まってきて、売るべきものを持たなくなったにも拘らず、図体だけが大きいままだったので経済的に参ってしまっていたのです。
野蛮で強かっただけならば、シーザーがガリヤ遠征した時(BC58〜51年)だって、彼らは騎馬を駆使して、体力だけならば充分精強だったのです。
中国で言えば匈奴など騎馬民族は、昔から強かったのですが、技術格差のある限り、騎馬民族も漢民族やローマ帝国に叶わなかったのです。
シーザーによるガリヤ遠征から、およそ500年も経て西ローマ帝国の滅亡した476年前後ころには、ゲルマンの農耕社会が成熟してきて地中海の都市国家と、技術格差がなくなってきていたからだと思います。
彼ら裸で原野を走り回っていたゲルマン族は、500年もすれば、農業国家と言うよりも農業社会として成熟し始めていたのです。
06/19/05「麻の歴史1(西洋に裸体像が多いわけ?)」のコラムで、ケルトの先祖が裸体で馬に乗っていた事例を紹介しています。
ゲルマン族は、しこしこと農業生産に従事していましたが、この500年ほどの間に充分力を蓄えていたと言うと抽象的ですが、農耕に必要な各種道具や生活用品の生産技術を身につけて、ローマから買うものが殆どなくなっていたのでしょう。
地方出身者が都に出て成功したら、そのまま都に居着くように、被占領地に価値が残っている場合は、占領軍がそこを自分の首都にしたり第二の都会にすることが多いのです。
モンゴルは、中国征服後に中国の大都を首都にしました。
しかし田舎者に滅ぼされたにもかかわらず、ローマは、そのまま地中海世界の都として残れず、ローマ人まで跡形もなくいなくなったのは、ローマが既に時代遅れになっていたからでしょう。
ちなみに、今のイタリヤ人と古代ローマ人とは別人だと言われています。
このように農耕社会が徐々に発達するにつれて、商業活動が停滞するのは必然です。
これが西洋ではフランク王国成立後、産業革命までの状態であり、わが国に当てはめれば、事実上鎖国状態に入った天智天皇(白村江の敗戦時)から明治維新までのわが国の状態だったでしょう。
関連ページリンク
稲垣法律事務所コラム内:歴史に関するコラム
©2002,
2003, 2004, 2005, 2006 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design
/ Maintained by Pear Computing LLC
