09/04/05
いろんな文様についても、ペルシャ伝来でない(芸術的センス)中国の独自性といえば、私が知っているのは龍ばかりで、パッとしたものは見当たらないのはそのためです。
(勿論私の教養レベルが低いだけですが・・・・。)
中国人は古代から商業民族として活躍して来たのですが、このコラムでは昨日から唐時代以降は商業ぷらす注文生産=ライセンス生産に移行したのではないかという仮説で書いています。
フランス革命の原因でも少し述べましたが、イギリスの産業革命によって、重商主義の時代が終わったことに適応するために、フランスでは革命につながったのです。
折角の革命だったのに、ナポレオンは帝政と言う形で、中途半端な王様の権威を残したので、私は一種の反革命・反動勢力であったと論じているのです。
フランスでは、まだ重商主義的要素が色濃く残っていたので、(その分イギリスに遅れていて、戦争する度に負けていたのです。)折衷的性格の帝政と言うものになったのかもしれません。
その後も王政復古や第○○共和制を繰り返し、第2帝政など行ったり来たりを繰り返すのですが、その原因は商業主義国家の性格と生産力に軸足を置くかの基本方向が定まらずに来たからでしょう。
ちなみに、現在は1958年に泥沼に陥ったアルジェ問題解決のために、ド・ゴール将軍が大統領に迎えられたときに出来た、第五共和制となっています。
アルジェは、フランスのガン細胞のようになっていたのですが、ド・ゴールの登場でけりがついてフランスが戦後復活へ向けて舵を切れたのです。
今でもフランスと言えば、何となく工業国家というよりもブランド品で商売している商業国家のイメージですが、これが、帝政や王政共和制を行き来する原因になっているのです。
ナポレオンの征服した欧州大陸各地で、王政をそのまま温存し、革命の輸出が出来なかった理由もそこにあるでしょう。
各地はフランスよりもさらに遅れていて、農本主義から重商主義にさえ切り替わったか、切り変わらないかと言う時期でしたから、絶対王制さえ本格的に成立していたと言い切れない時代状況でした。
そんな諸国では、革命思想による王政打倒の前提・基盤を欠いていたのです。
その後、19世紀半ばから後半かけてにプロシャがやっと遅ればせながら、領邦君主から絶対君主制に進化したのですから、その違いが分ろうというものです。
プロシャによるドイツ統一は、1868年の普仏戦争の戦勝後1871年パリでドイツ帝国の成立宣言をして、やっと成立したものです。
関連ページリンク
©2002,
2003, 2004, 2005, 2006 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design
/ Maintained by Pear Computing LLC
