09/26/04

江戸の治安対策3(軍縮と軍拡)木曾殿最後

各大名家では、軍事基地としての機能がなくなり、何かあったときのために、与力への付け届けを怠らないようにしていたことは、02/20/04「与力 2(ワークシェアリング)」で紹介しました。
井伊大老は、徳川4天王の武門トップの殿様でありながら、(戦闘場面では、本来切り込み隊長役です)桜田門外で襲撃されても自ら刀を抜いて戦うことも出来ず、切られてしまったのです。
秀吉の刀狩が有名ですが、その後も際限なく平和主義が進行していたのが、江戸時代でした。
軍縮と軍備拡張の関係を考えさせられます。
際限なく拡張しても際限なく縮小しても、結局は相対的な力関係であることがわかります。
どうせなら、戦闘兵器を刀や槍に限定して、その腕の冴えだけを争う程度の戦いの方が、関係ない国民の方は、巻き添えを受けるリスクが少ないだけ安全でいいです。
戦国時代までは、百姓などは、離れた岡で弁当を食べながら、合戦を見物していたと言われます。
川柳に「見てきたような嘘を言い」と書かれますが、少し遡りますが、平家物語の中でも、「木曾殿最期」の描写は名場面ですが、実際に見学者が一杯いたからこそわかるとも言われます。
それに観客がいなくとも、一定の武将クラスになると、乗り換え用の馬でさえ一頭や2頭ではなく何頭も従者が引いて歩いていたのです。
ですから、騎馬戦と言うとアメリカの「インデアンもの」・・・西部劇のように騎兵だけが何キロも走るのかと言うと、そうではなくて、周りに何頭も換え馬や槍持ちがいて、歩いて付いてくるのですから、そうは走り回れません。
木曾義仲が、鎧が重たく感じると言う場面がありますが、もしも馬が朝から1頭だけで走り回っていたら、馬のほうがとっくにへばっていたでしょう。
馬のえさ、その他、いろんな必要のために何人も従者がついていますが、彼らは戦闘員ではないので、お互いの主人同士の戦いの顛末をみているだけです。
08/14/04「旗本とは(与力14)」のコラムで紹介しましたが、旗本の義務として200石で槍持ちなどの従者を5人抱える義務がありました。
これがみんな非戦闘員と言うわけではありませんが、戦国時代までは武士は兵糧から何から何まで自前でしたから、(旅館がないので自炊しかないのですから、鍋釜の道具類だけでも大変です。)結構な人数を連れて歩いていたのです。



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