09/23/04
島津家と足利尊氏4(勝てば官軍4)
私は、幕末の勤皇論=幕府概念は明治政府のでっち上げでないかという疑問同様に、足利氏が天下を取ってからの後講釈は、でっち上げ正当論だと思うのです。
明治維新のときのように「勝てば官軍」と言う諺が生まれなかったところから見ると、明治維新のときほどでっち上げがひどくなかったのだとは思いますが、(何しろその後も、南朝北朝に分れていましたので、思想統制が直ぐにはできなかった点が明治政府とは違います)それでも、足利氏に都合のよい歴史にした可能性があります。
日本書記が、天武朝に都合よく書かれているつもりで読まねば、本当の古代史がわからないのと同じです。
北條与党としての鎌倉の期待を担って出陣した足利の大軍が、京の近くに布陣したままで、旗幟鮮明にせずグズグズしていたので、中小大名はうっかり動くに動けず、その挙句寝返ったのですから、鎌倉・北條軍はたまりません。
関が原決戦場で大軍を擁しながら、グズグズしていて、西軍の負けの原因となった毛利軍より悪質です。
こじ付けかもしれませんが、足利のおかれていた立場・行動と、薩摩の立場・行動はよく似ているように思います。
薩摩は、もともと徳川と連続して姻戚関係にあって、いわゆる外戚として発言力が大きいばかりか、最大の軍事力を持っていたのですから、1番の味方であった筈なのです。
それが政治の流れのけっか、(これまで書いてきたように、井伊大老以来の徳川側にも責任がありますが、考えようによっては、薩摩は好きなように徳川家をかき回した挙句)裏で薩長同盟を結び、倒幕軍の主力になってしまったのですから、後ろめたい気持ちが大きかったでしょうし、幕府側も恨みに思った人が多かったでしょう。
話がかなりそれましたが、08/23/04「親藩、譜代、外様の区別の実際3・・会津と島津家の役割」のコラムまで書いてきた「譜代と外様の区別」の話に戻しましょう。
私の考えでは、井伊大老以来の強硬策が、薩摩を佐幕・・・公武合体論から倒幕へ向かわせ、薩摩はその言い訳として譜代・外様の区別が明治以降宣伝するようになったに過ぎず、本当は言うほどでもなかった筈だと言うのがこの連載の意見です。
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