09/22/04

「源氏でなければ武家の棟梁になれない」の不文律はあったのか?3

少なくとも北條家が実権を握っていた間に、源氏・・・・それも義家流でなければならないと言う意見の人は、誰もいなかったでしょう。
そのころあったとすれば、天皇家に政権を取り戻すかどうかと言う議論があっただけではないでしょうか?
地政学的・・・と言う言葉が、何故かマスコミで流行ですが、この言葉を流用しますと前記のとおり、坂東武士団の独立願望と、近畿圏以西の勢力との綱引きが中世政治の特徴ではないでしょうか?
足利は、この東西の争いを利用して政権を取ったのですが、本質は坂東武者ですので、結局は後醍醐天皇に反旗を翻すことになるのです。
悪く考えれば、天皇家に政権を戻そうとする楠正成その他西国の武士団を利用して、北條家を滅ぼして、天下を取った途端に、室町に政務事務所を設けて、(すなわち幕府です)事実上武家政権を始めてしまったのですから、思想的には寝返ったようなものです。
薩長が攘夷論を利用して、徳川をガタガタにしてから開国論になったようなものです。
新田義貞の行動は、関東平野の奥にずっといたので時代認識が足りなかったのと、足利に対する対抗意識があったので、1直線に勤皇一点名ばりで、わかり易いものです。
足利の巧妙(狡猾)な動きは、北條執権家との長年の縁戚関係で、政治駆け引きに慣れていたのと、領地が東海方面その他に飛んでいたので、情勢把握に有利だったこともあるでしょう。
鎌倉時代に起こった承久の乱、正中の変、最後の楠正成の蜂起に始まる建武の中興、室町時代の南北朝の争い、みんな天皇家対武門の争いです。
源氏かどうかは、誰も問題にしていなかったように思います。
「源氏でなければ武門の棟梁になれない」という不文律は、如何にも無理なでっち上げ、後世のこじつけと言わざるを得ないでしょう。
全国の武士にとっては、源氏であれ、誰であれ、武家の政権がほしかっただけであって源氏に特別義理があったものではありません。
そこを強調したのが、承久の乱における尼将軍北條政子の名演説でしたし、おおくの武士がこれに共鳴したのです。
このときにも足利は、後鳥羽上皇方に参加せず鎌倉方だったのです。
当然の事ながら、このとき上皇方に付いた武士は、領地を没収され滅亡していますので、鎌倉末に活躍する源氏系の武士は全員北條方で戦ったはずです。
また仮に、もとは源氏の政権だったと知っていたとしても、平成16年9月13日のコラムで秀吉の例を書いたように、信孝や信雄との戦いで、秀吉に臣従を誓っていた武士が、主筋である信孝に通じて秀吉を裏切れば、却って武士道に反するのです。
以前02/24/04「与力 (寄り騎)6(主従とは?2)」のコラムでも書きましたが、下克上と言っても、家の子郎党が主人を裏切るのはなくて、独立した武士(相応の家臣団を抱えている)がとき応じて別の大名に付くのをいうだけです。
武士団はそれぞれとき応じて、どちらについてもそれは「主君に対する裏切り」ではありません。
ですから、もとは源氏がトップだったと知っていたとしても「それがどうしたの?」というところです。



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