09/21/04
貴種担ぎ出しと立憲君主政治5
やっかみや足の引っ張り合いが盛んな坂東では、何か事を起こそうとすれば、自分が名乗り出たのではだめですから、象徴的な貴種を担ぎ出して、結集する必要があったのです。
治承年間に頼朝を担ぎ出した北条家は、小さな豪族でしたから、みんな自分にもチャンスがあると踏んで参加したものでしょう。
実際、千葉氏は最初の大口応援者として、鎌倉政権の重鎮となって長らく重きをなしていたのです。
貴種担ぎ出しの考え方は、その本質は旗印にするだけのご都合でしかないのですから、政権を取ってしまえば傀儡、シンボルでしかないのを予定しています。
錦旗を担ぐのと同じ思考です。
政権獲得後は、担いだ豪族間の勢力争いで勝ち抜けばいいのですから、貴種は御用済みです。
武士団は頼朝を担いだけなので、政権を取ってしまえば、自分達の合議で決めていきたいのであって、頼朝に何時までもでしゃばって欲しくなかったでしょう。
そういう視点で考えれば、いったん政権が成立した以上は、旗印のトップは京から連れてきた公卿でもなんでもよかったのではないでしょうか?
当時わが国では、朝廷政治しか経験がなかったのですから、政権が出来た後の運営は、都から下向した大江広元や三善等の意見で政府組織を作りました。
当時彼らの知っていた政治の有りようは、書物で読んだ唐、宋の形態か、朝廷の慣習を武家風に改変することでしかなかったでしょう。
朝廷では、天皇(主上・お上)は御簾の奥で黙ったいるだけで、実際政治は公卿の会議で決めているように、鎌倉でも旗印に担がれただけの頼朝や後継者の役割は、有力御家人間の合議(評定所、政所などそれぞれのプロ)で政治をしていくと言うものに落ち着いたのです。
そういう仕組みを前提にすると、将軍は人形みたいなものですから誰でもよかったことになります。
実務を知らない世襲の者が、半端な口出しをしないほうが、政治は合理的に進みますから、むしろ無関係な公卿の方が政体としては、簡明ですし、(実朝や頼家は邪魔になったのです)近代国家の「君臨すれど、統治せず」と言う立憲君主政治の先取りだったともいえます。
京育ちの頼朝は、何かと京の風習を持ち込もうとしますので、政子との間での軋轢が物語りや映画になりやすいのですが、そうした私的なことではなく、政治理念としても坂東武者のための政権としての性格とどこかちぐはぐになっていた可能性があります。
こうして考えると、頼朝急死の原因について暗殺説がありますが、結構真実味を帯びてきます。
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