09/18/04

源平争乱の意義4(平家の武士としての役割2)

ちなみに足利氏は、宗家と支族の関係がうまくなく、このとき殆どの支族が小山方に付いたので、志田・足利連合軍は、外形的には圧倒的な兵力だったにもかかわらず、小山氏に負けてしまったと言われます。
この結果藤氏足利は、勢力を喪失し、歴史上殆ど出てこなくなりますので、今では足利氏と言えば源氏の足利氏しか思いつかない人が多いと思います。
この足利氏は、源氏の足利ではなく、平将門を討ち取った藤原秀郷の流れを組む足利氏で、秀郷以来北関東で大きな勢力を張っていました。
宇治川の橋合戦などで有名な足利又太郎は、この足利氏のことで、足利尊氏の先祖では有りませんので間違いのないようにしてください。
ものの本では、平家は結束が固かったが源氏は、分裂ばかりしていると書かれますが、
平家勢力を駆逐して源氏ばかりになっていたからこそ、身近な親族が1番の敵になったのは当たり前です。
どこの国の政権でも、天下を取った後は跡目争いしかありませんから、外敵よりも内部争いに目が向くのと同じだったでしょう。
内部争い、跡目争いになれば近い親族ほど争いが熾烈になります。
徳川家光とその弟の関係は有名です。
現在で言えば自民党独占選挙区では、同じ自民党の対立候補が最も激しい政敵になるのと同じです。
平家は最後まで結束が固かったといわれるのは、伊勢平氏は、正盛、忠盛、清盛の1流れしかなく、その子らは皆公卿殿上人にはなりましたが、源氏のように各地に根を下ろした独自勢力を築くまで至らなかったのです。
それぞれ各自の屋敷がある程度ですから、いざとなって見れば、独自に戦う能力もないので六波羅に駆けつけて、1門で結束するしかなかっただけことではないでしょうか。
その結果伊勢平氏一流が滅亡すれば、あとは何にも残らなかったと言うことになります。
源氏のように本家が滅亡しても、あちこちに大きな勢力が根をおろしていたのとは大違いです。



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