09/18/04
源平争乱の意義4(平家の武士としての役割1・・・貴種であるだけ?)
平家は、武士層の利害調整・吸収の分野では、源氏に大きく遅れを取っていたと言うよりも、貴種にあまえて、新しく勃興した階層の需要に適応できていなかったのではないでしょうか。
平家は、清和天皇のおおよそ5〜6代前の天皇である桓武天皇を祖とするのですから、清和源氏に比べるとかなりの老舗です。
平将門の乱の構成メンバーを(敵役)見れば分るように、そのころは平家勢力のオンパレードで、平家同士の争いだったのです。
源氏は後発参入だった分、勢力拡大のためにいじましい努力をしていたでしょうし、それだけに泥臭い地元利益の代弁にきめ細かく対応していって、勢力扶植していったものと思われます。
これに対して、平家は老舗である分、床の間を背にした殿様商売に慣れていたでしょうから、徐々に源氏に地盤を食い荒らされていったのです。
平将門のころは、まわりは平家ばかりで、平家同士が敵対していたように、既に保元・平治の乱のころは、源氏が武士層の需要のほとんどを掌握していて、源氏同士で争うくらいに勢力が入れ替わっていたのです。
09/15/04「源平争乱の意義1(武家社会の到来を告げるもの)」と16日のコラムで
千葉氏が平家でありながら、源氏に近づいていったことを紹介しました。
坂東の地で見ますと、武蔵の国で勢力を築いた木曾義仲の父親源義賢は、為義の息子ですが、実の兄弟である左馬頭義朝の長男・悪源太義平に攻められて殺されています。
既に叔父甥間で戦争をしていたのですから、源氏と言うだけで1枚岩でなかったことが分るでしょうし、それだけ勢力が大きくなっていた証拠でもあります。
義仲は、滅ぼされた義賢のご落胤として、木曾の山奥にかくまわれて育ったのです。
また、前回のコラムで紹介した志田義広は、同じく義朝の弟(為義の息子)ですが、保元平治の乱に関与せず、下総から常陸にかけて勢力を蓄えていました。
彼は、実兄義朝の息子に参向するのを潔しとしなかったでしょうから、千葉一族のようにはすぐ参向していません。
そのうち、頼朝に会って見ると頼朝の態度がでかいので頭にきたらしく、頼朝の虚を窺って足利宗家(藤姓です)と連合して挙兵しますが、小山氏に完敗して失敗し、更にその後は義仲に加わるなど、源氏1門は対立を繰りかえしているのです。
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