09/17/04

源平争乱の意義3(貴種と立憲君主政治2)

もともと頼朝が生きていたころから、頼朝は武士団に担がれているだけの輿の上の人であって、信長のような独裁権力を行使していたのではありません。 現代人は、武門のトップと言うと、信長や秀吉、家康のような独裁的権力を想定しがちですが、武士のトップと言っても戦国時代を生き抜くまでは、それほど強いものではなかったのです。 物語では、北條政子が強くて、頼朝は頭があがらなかったような書き方ですが、そういう個人的なことではなかったのです。 構造的な問題として、トップはそんなに強い立場ではなかったのです。 源氏や平家は、信長や秀吉のように、自分の力で天下を統一して君主になったのではなく、権門に近い貴種として、(源氏も平家も、もとは天皇家から臣下に下ったもので、中央にツテがあったのです。)派閥・系列を増やしていったに過ぎません。 前回と前々回のコラムで、千葉氏の相馬御厨の下司職をめぐる争いを少し紹介しましたが、皆さんもご存知の、メジャーな事件で考えますと、平将門の乱があるでしょう。 この乱の発端は、結局のところ平家同士の領地争いですが、このころは何でも中央の朝廷での裁定にかかっていたので、どんな不当なことでも中央でのコネ次第で泣き寝入りするしかなかったのです。 こうした結果を見てきた地方武士は、それぞれツテをたよって権門の系列に組み込まれて行ったのです。 八幡太郎義家が、後三年の役で彼に従った武士団に対する恩賞を中央で認めてくれなかったので、自分の才覚で恩賞を与えたので、坂東武士は恩義に感じ、以後源氏の地盤が培われたと、ものの本で読んだことがあります。 ここでは、義家が自腹で何とかしたと言う事に着眼するのではなく、中央に顔の利く総大将が、地方武士の利権代表になっていた点が重要です。 こうして、中央陳情の流れを大本で束ねていたのが源氏であって、源氏は藤原氏と提携して大きくなっていたのです。



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