09/15/04
源平争乱の意義1(武家社会の到来を告げるもの)
前回までのコラムで書いたように、歴史上ホンのわずかな期間(実質10年ですよ!)源氏が天下を取っていたに過ぎないのですから、そのわずかな期間だけで、「源氏でなければ武士の棟梁・将軍になれない」という不文律が生まれたなどと言うことは、考えられないことです。
そもそも治承4年=1180年頼朝挙兵にあたって頼朝方についた武士をみますと、北條は平氏であったことが有名ですが、頼朝が、石橋山で敗れて房総半島に船で逃れてきたときに、まず、その地で味方したのが安西景益(安房)です。
この安西氏は、千葉氏の1族ですし、その後の頼朝勢優勢を決定づけたのは、千葉宗家の常胤の参戦ですが、千葉氏は、いうまでもなく桓武平氏から平良文以来の血を引く平家1族です。
千葉常胤は、鎌倉時代を通じて正式には、千葉介平常胤と言われていたのです。
その後千葉1族である上総介広常(上総)葛西清重(下総)等が続々参向して、頼朝軍は盛り上がるのですが、支持者の内容を見ると、頼朝は平家軍によって支えられていたとも言えるのです。
逆に源氏累代の家人として有名な畠山重忠、熊谷直実等諸豪族は、千葉氏など房総諸豪族が頼朝応援後も、なお、敵対していて大勢が決まってから、頼朝に服属した武将でした。
頼朝挙兵に応じて味方した三浦氏を攻撃して戦死させたのは、この畠山重忠だったのです。
源氏そのものでは、頼朝の叔父にあたる志田義広は、今の千葉から茨城県にかけて勢力を張っていた人物ですが、最後まで頼朝軍と敵対していますが、これは主導権争いだったようでもあります。
細かく見ますと、千葉氏も相馬御厨の所領を巡って、長年佐竹と争っていて、この関係で、源義朝に近づいたりしていたようですから、源氏、平家と言っても単純ではなかったのです。
平治の乱では、千葉広常は悪源太義平の従者七騎の一人として、義平と一緒に平重盛を追いまわしております。
要するに血統は、たいした問題ではなかったのです。
以上の関係をみれば、頼朝挙兵以来の争いは、源氏対平氏の争いではなかったことがわかるでしょう。
いわゆる源平争乱は、「貴族の手足として働くこれまでの武士のままでよいのか、自分達の政権を造るのか」と言う社会革命的な性質、あるいは平将門以来の坂東武者の独立願望があったのです。
頼朝は、その一方の旗印に選ばれただけのことであって、彼らは源氏再興のために結集したのではありません。
東北の奥で育った義経は、社会の変化を学ぶ機会がなく、社会革命的な実質を理解できなかったために、後白河法王にうまく取り込まれ、頼朝の了解なく判官に任じられてしまったのが命取りになったと思います。
武士団は、自分達の政権を目指していたのですから、義経の行動は武士団に対する背信行為を意味したでしょう。
鎌倉から刺客土佐の坊をさし向けられるに及んで、義経が、自立しようとして院宣を貰って見たら、殆ど誰も呼応しなかったのはその結果です。
そうして、摂津大物の浦から脱出せざるを得なくなったのです。
これが歌舞伎のダシ物、堀川御殿の場から碇知盛、さらには吉野への道行き(初音の鼓)などになっているので、ご存知の方が多いと思います。
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