09/14/04
源氏でなければ武家の棟梁になれない」の不文律はあったのか?2
家康が関が原合戦(1600)で勝利した後の領地没収等の処分や論功行賞は、あくまで秀頼の名代としての処理をせざるを得なかったのですが、着々と勢力を広げた彼は1603年に豊臣家に臣従したまま?征夷大将軍に就任します。
そのわずか2年後の1605年に、自分の生前に秀忠に将軍職を譲ってしまい、徳川で世襲する(秀頼が成人しても譲らない)ことを内外に宣明し、豊臣方を刺激しました。
北条家も、(と言うよりも家康が真似をしたのでしょう)時政生存中に息子の義時を執権に就任させ、執権職を世襲することを明らかにしたのが1202年です。
執権職を北條家が私物化するこの世襲に誰も反対できなくなっていたのですから、かなり前から北條家への権力集中が進んでいたことが分るでしょう。
このときから、六波羅その他の要職も殆ど北條家で占めることになったのです。
頼朝の将軍就任から、わずか11年、死亡後3年しかないのです。
このころから、有力御家人は北条家に順次滅ぼされ、承久の乱(1221年)での尼将軍政子の演説でご存知の通り、そのころの武士団は、北條の指揮命令で動いていたのです。
ところで足利の役割ですが、むしろ、北條による有力御家人つぶしに、足利は常に加担して、一緒に勢力拡大していったのではないでしょうか?
官位、役職は、コネ(縁組)で簡単に引き上げられますが、家臣や味方の領地を増加させるには、自分の直轄地を割くか敵対者の領地を分捕って分け与えるしかありません。徳川家は800万石と言われる領地が有ったので、大岡越前や田沼意次を出世させ、加増するには、誰かを取り潰す必要がなかったのです。
しかし、北条家も頼朝も、自前の領地はもともとないに等しいのですから、味方してくれた武将へのお礼に、自分の領地を分け与えられません。
領地拡大や恩賞は、誰かが失脚させてそれを分捕っていかない限り、増やしようがなかったのです。
鎌倉創設期には数百石程度の武士でしかなかったと言われる足利が、鎌倉末には北條に次ぐ大家にのし上がっていたのは、単なる縁組だけでは不可能です。
北條とその他の有力御家人との争いに常に北條方として軍功を上げて、(源家累代の有力御家人つぶしにも加わったでしょう)その恩賞として、滅ぼされた豪族の領地の1部を分け前として貰っていたに相違ありません。
その結果、北條の肥大化と足利の肥大化は平行、比例関係になったのでしょう。
そうでなければ、すこしの間に次々と領地を増やせるわけがありませんし、足利の領地は、本拠地は小さなままで、飛び地ばかりであった不自然な原因も分ると言うものです。
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