09/11/04
島津家と足利尊氏2(勝てば官軍3)
このコラムは法律のコラムの途中の寄り道でしかなく、歴史のコラムではありませんので、これ以上系図に深入りするのもどうかと思いますので、(早く法律のコラムに戻りたいのですが迷路に入ってしまいました?)系図問題はこの辺にしておきましょう。
いずれにせよ鎌倉政権成立草々、地方小豪族でしかなかった足利氏が天下を取るような野心や遺言があるはずがないというのが私の想像です。
「北條家が乗っ取っていることに対する源氏の1族としての憤懣か」と言うとそうでもないのです。
もしも北条家に簒奪されているのが悔しいと言うのならば、頼朝の息子達が殺されてしまって、北條家が政権を簒奪したのはさらに20年以上も後のことですから、義康、義兼どころの時代ではなくなってしまいます。
また、承久の乱(1221年)でも、足利氏は上皇方についていないのですから、そのころはまだ勢力拡大に熱心な(欲得基準)だけで、源氏かどうかという筋目論は眼中になかったようすがわかります。
足利家が、鎌倉初期の数百石取り程度の小さな豪族から、大家にのし上がっていったのは、鎌倉政権が出来ると直ぐに時流を敏感に読んで北條時政の娘をもらい、その後も勧修寺家から武士になった上杉が重臣としてのし上がるまでは、絶えることなく北條家と縁組を重ねて、(尊氏の妻は、第16代の執権赤橋守時氏の妹でした)北条家の領地拡大に合わせて、次第に領地拡大していったからです。
こうして鎌倉末では、北條に次ぐ大家として武力的にも重きをなしていたばかりか、長年北條家にすり寄っていい思いをしてきたのですから、イザ、というとき恩義に報いるべき立場にあったのです。
また、08/22/04「親藩、譜代、外様の区別の実際2」のコラムでも、何代も前の親戚である徳川御三家、御1門よりも最近の血縁を大事にするのが人情であると説明しましたが、北條1門にとっても、毎世代婚姻でつながっている足利家のほうが、遠い親戚である1門よりも親しい関係にあったでしょう。
具体的に言えば、毎回北條の娘をもらっている関係上、幕府の要職にある殆どの人(時政の孫・泰時以来、北條家で独占するようになっていました)が足利氏にとって、血縁の伯父であったり、自分の母が北條家の娘だったりするのですから祖父母であったりするのです。(ただし尊氏に関しては、母が上杉出身でした。)
こうした経緯を見れば、北條1門だけでは処理しきれなくなった危急にあたって、足利家は1門以外では、もっとも厚い信頼のもと、第2次楠正成討伐軍の核となる大軍を擁して出陣していた筈です。
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