09/10/04
島津家と足利尊氏1(勝てば官軍2)
足利氏も、政権を取ってから、何代にもわたって天下取りの遺訓があったと言い始めますが、私は本当かな?と疑っています。
義家から7代目・家時から3代目・すなわち尊氏と言うのですが、出来すぎた作り話ではないでしょうか?
義家の遺言か義康の遺言なのか、書いている本によって違うのでよく分りませんが、
義家とすれば、ご存知のとおりまだ武士の時代が来ていない時代ですから、義家が「天下を取る」などと言う概念自体思いつきもしなかったでしょう。
その彼が、そんな遺言をするはずがありません。
義康の遺言とすれば、彼は鎌倉の頼朝にうまく取り入って、北條時政の娘を自分の息子の嫁にもらっているくらいですから、時代精神として有り得ないことではありませんが、7代目が家時というのは義家からだと合いますが、義康からだと計算が合いません。
そのうえに、鎌倉成立時には、義康・義兼父子は新田の中堅の家来程度の小さな土豪でしかなかったことは史実として明らかです。
平家が牛耳っているときに黙っていて、同じ源氏が天下を取ったばかりのときに、どうして自分が頼朝の系統を倒してまで天下人に取って代わらねばならないという遺言までしなければならない必然性があったのか理解できません。
頼朝の家系が自分より下位ならまだ理解できますが、そうでもないからなおさらです。
そもそも、義康の生存期間が良く分りませんが、大方の系図では義康が義家の孫となっているのですが、義朝の父為義が義家の孫世代ですから、いくら世代間で生年月日がずれていたとしても、彼が頼朝時代に生きていたこと自体不思議です。
頼朝は為義の孫ですし、しかも頼朝は義朝の子供の中では下のほうで、平治の乱の時はまだ子供でしかなかったのです。
そのときに右近の橘、左近の桜をぐるぐる回って平重盛を追いかけて活躍したのは兄の悪源太義平でした。
その頼朝が成人して、かなり経って(33歳)からの挙兵ですから、何で義家の孫と称する義康が生きていたの?と言うのが私の疑問です。
要するに足利氏系図は、当てにならないのです。
そもそも、鎌倉幕府成立は1192年(この説を取る学者がいないことは 03/15/04「幕府概念の破綻」のコラムで紹介しましたが1応の目星として書きました。)から、鎌倉政権崩壊の1333年(建武元年)まで、わずか140年くらいしかないのです。
わずかに140年間に足利氏が10代または七代も世代を重ねたと言う記述(出回っている系図)自体おかしいのです。
多分、北條執権が16代まであったので、後世よく考えない人が、それなら足利氏もそのくらい世代を重ねただろうくらいに考えて流布したのかもしれませんが、北條家は執権職を生存中に次々と廻していたので、16代にまでなっただけで、世代としては少しだったのです。
このことは得宗政治が確立したことと関係があるでしょう。
かなりの書物または学校教育でも、北條執権の最期が高時としているのが多いのですが、彼は14代執権であり、最後の16代執権職は、尊氏の妻の父赤橋守時だったのです。
高時は、鎌倉最後のころには、とっくに執権職を譲っていたものの、彼は得宗として、最後まで実権をもっていたので、彼を最後の執権と間違う書物が多いと言うわけです。
ただし、義康の息子義兼が時政の娘をもらっていることも間違いなさそうなので、ややこしいのですが、もしかしたら、義康は、義家の孫世代と言う設定自体誤りかもしれません。
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