09/08/04

外戚としての島津家2(「維新」とは?)歴史は、勝者によって作られる

家茂派と慶喜派のいざこざの連続の結果、徳川家は内部からガタガタでしたし、対外的には、外国の要求に屈して開国せざるを得ない上に、長州には戦争を仕掛けて見ると完敗でしたから、慶喜が15代将軍に就任したときは、徳川政権はもう臨終間際だったのです。
この段階で「今後仲良くやろう」と言われても、既に将軍または徳川家を中心に諸侯会議で運営しようとする佐幕や公武合体論の時代が終わっていたのです。
薩摩としては、この段階では外戚として発言力を維持、強化する段階から、自分で政権を取れると言う判断になっていったのでしょう。
中国の歴史で見れば、漢の王莽が自立したのと似ているように思います。
(私が思いついただけかもしれません。)
王莽については、平家物語の冒頭に「遠く異朝をとぶらえば、秦の趙高、漢の王莽・・・・」として政権簒奪者の2番目の例として出てくるので、大方の人は聞いたことがあるでしょう。
彼は、外戚としての事実上の権力者・・摂政・仮皇帝にまで上り詰めていますが、それに飽きたらず、西暦9年、自分が自立して「新」と言う国号を宣言したのです。
偶然かどうか知りませんが、薩長の樹立した政権も維「新」政府というのです。
明治維新のうち「明治」と言うのは単なる年号ですし、明治維新のうち「維」と言う文字はもともと「ご一っ新」と言われていた口語の「1」をカッコウよく「維」新に書き換えただけです。
維新の「維」は太い綱をあらわすので、大綱(秩序)を新たにすると言う意味があるばかりか、詩経に「維新(これあらたなり)」と言う熟語もありますので、(元号の決め方は、漢文の中から取るのがいまでも慣わしです。)漢字を1から「維」に変えたのでしょうが、「明治維新政府」のうち、意味がある漢字は「新」と言う文字だけになります。
このとき前漢帝国が消滅しました。
ちなみに前漢を中国では西漢と言い後漢を東漢と言います。
その他西周、東周、西晋、東晋等と東西で表します。
王莽に限らず、いわゆる禅譲の形式による政権移転には、こう言った場合が多いものです。
薩摩もこの段階では、諸侯会議の有力者になるどころか、自立出来るとの判断になって、裏で薩長同盟につながっていたのでしょう。
外戚が主筋に入れ替わって天下を取ってしまった日本の例では、足利尊氏が、鎌倉・北條政権を見限ったのと似ています。
明治政権が出来てからは、薩摩は、(すなわち明治政府・・ひいてはその意を受けた文人・マスコミ)ことさらに、自分達は外様であって、もともと徳川の家臣ではないとか、関が原では、最後まで頑張ったとか、幕府に恨みがあるとか(長良川改修工事など、お芝居にまでしています)言い募るようになったのだと思います。
薩摩の自己正当化が成功して、野球ファンと言えば巨人びいきが多いように、今では薩摩を悪く言う人は殆どいません。マスコミの刷り込み効果は、偉大です。



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