09/07/04
外戚としての島津家1
この機会に、薩摩の幕末における立場を別の角度から、見ておきましょう。
薩摩が将軍家と姻戚になれたのは、一ツ橋家にあった11代家斉が将軍になる前の段階で、島津家から嫁入りしていたからとも言われます。
家斉はご存知のとおり側室40人、子供だけで55人前後もいたとも言われますが、薩摩からは、格式から言って正室でしたから大奥での発言力は絶対だったでしょう。
何しろ、外戚問題を起こさないように徳川宗家の正室は、京(5摂家)から迎えていたのが、たまたま将軍就任前であったことから武門・それも最大の大名からの正室だったのですから結果的に歴史的事件になりました。
次の12代家慶の母は、堀田らくと言うのですが、どこの国でも後宮では正室・すなわち皇太后の実権は強大ですから、大奥での薩摩の地位は揺るがなかったのでしょう。
その縁で?孫の家定には、さらに薩摩は天障院を送り込めたのですから、島津と徳川の関係は藤原氏の外戚政治みたいになっていたのです。
薩摩の建白書によって一橋慶喜が将軍後見職に就任したことは、「08/29/04「幕末の政治模様6(慶喜擁立と強硬策の継続)」のコラムで紹介しました。
当時の武力比較をしたものをどこかで読んだことがありますが、薩摩は武士の数だけでも、全国の武士数の1割を占めていたし、最新式兵器の装備は全国1でしたから、とても徳川家が太刀打ちできない実力だったのです。
その実力者が連続して外戚となれば、発言力が半端でないのは当然です。
徳川家が有力藩と相談しながら政治をする制度となれば、薩摩は最大の雄藩でもありますしもともと慶喜の支持者どころか島津の建白書によって後見職に就任できたのですから、いよいよ徳川と島津は親密な与党関係になっていたはずでした。
すんなり一橋慶喜が将軍になっていれば、蜜月のままだったでしょうが、井伊大老以来の強硬策、久光の武力上洛の結果の誕生では意味が違ってきます。
外部からの要求に屈して、慶喜を後見職にしなければならなかった幕閣は、慶喜を敵のまわしもののように見なしますし、慶喜は幕閣内で浮き上がっていました。
山岡鉄舟の読み物で読んだことがありますが、彼が江戸城に行ってみると慶喜の周りには誰も寄り付かず、ぽつねんとしていたさびしい状況が描かれていますし、宮尾登美子の描く天障院篤姫の小説でも、大奥の水戸系・・慶喜に対する悪意が露骨です。
こうして幕閣は慶喜を信用していませんので、家茂が上洛したときには、家茂側近の官僚機構と慶喜の2頭政治を呈していたのです。
家茂が怒って将軍辞職届を叩きつけて「慶喜に後をやってくれ」と江戸に帰ろうとしたことさえあるのですから、(慶喜は急いで、兵庫開港の勅許を取得して、家茂や側近の機嫌を取りますが・・・)慶喜の行動はあっちに付いたりこっちに付いたりややこしくならざるを得ません。
政治状況でそうなっただけでなく、彼はもともと「大政を動かす器ではない」と言って彼の後見職就任に反対した老中久世広周の言うとおりだったのかもしれません。
久世は、言い過ぎたせいか分りませんが、その後失脚しています。
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