09/06/04

幕末の政治模様9(大政奉還)

第2次長州征伐の陣中というか大阪まで出征していた14代将軍家茂が急死します。(毒殺説もあります。)
そして国内政治の実態は、武断政治、強圧作戦ではどうにもならないところに来ていたことが、長州征伐の行き詰まりで露呈しました。
何しろやって見たら、長州の方が強かったのです。
ベトナム戦争末期だったか戦後直ぐだったか忘れましたが、ソ連寄りだったベトナムに対し、古色蒼然とした「庸懲」するとの表現で中国がベトナムを攻撃したことがありました。
属国に使うべき「庸懲」等と言う言葉使いからして、時代錯誤性が明らかでしたので、どうなることやらと思っていたものでした。
ベトナムは長年アメリカと戦っていて、ついには世界の覇者アメリカを追い出してしまったのですから、百戦錬磨でしたし、それにアメリカ軍から捕獲した最新式兵器を持っているのに対し、中国は第2次世界大戦から、朝鮮戦争当時の装備を中心としていたのですから、まったく歯が立ちませんでした。
大軍を送ったのに、あちこちの国境線で敗退して恥を掻いたのは、幕府の第2次長州征伐と同じです。
第2次長州征伐の失敗で反動体制・武力弾圧作戦が破綻したのを認めざるを得なくなった徳川家では、再度回天して、島津等連合政権論者の推していた一橋慶喜を将軍にすえることになったのですが、政治というものは順序が大切です。
うまく行かないから、これから薩摩さん仲良くしようねといわれても、薩摩としては、「もう結構です」となったのでしょう。
こうして徳川は、井伊大老以来の武断政治の失敗を認めた結果に終わったのですが、この一連の結果は薩摩など雄藩との距離を生み、取り返しのつかない傷を負ってしまったと私は思います。
この時点で、強硬路線の梯子をはずされた会津(松平容保・新撰組も同じく御用済みでした)は辞任しておけば、賊軍にならなかったでしょうが、辞職願いが容れられずそのまま留任となりました。
徳川政権としては何もかも1度に放棄できませんから、薩摩の一人舞台にならないように1種のカード・しんがり軍として会津軍に残って欲しかったのでしょう。
8月24日のコラムで書いたように、慶喜は元はと言えば連合政権論者でしたから、もみくちゃになりながらも将軍になってからの大政奉還につながっていきます。
慶喜は大政奉還して、自分(徳川家)は国内最大の800万石の大名であるから戦後のアメリカが国連を牛耳ったように、連合政権を牛耳っていこうとする目論見でしたが、薩摩や長州が幕府をしのぐ力を持っているのがわかってからの提案では、時すでに遅かったのです。
さて、アメリカは、独仏などの反対を抑えて、国連のお墨付きもなしに、イラク戦争を殆ど英米だけでやりましたが、手におえなくなってから、多国籍軍の協力を求め始めました。
そこは大人ですから、「いまさら・・・・」と独仏は言わないでしょうが、さてどうなることやらというところです。
物事には、順序があると言う歴史教訓です。



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