09/05/04
幕末の政治模様8(幕府の強硬策と慶喜擁立2)
このように慶喜と松平春嶽は、当時の政治状況と自己保身もあって、妥協しながら政治をするために次々と強硬策を展開していきます。
文久2年1862年4月の島津久光の武力上洛で地に墜ちた徳川の権威を回復するために、同年中に会津の出兵を決め、正規の手続きで捕捉しきれないアングラの浪士に対しては、こちらもテロ集団としての浪士隊・・・後の新撰組を創設し、会津も独自に見廻り組を作ってお互いテロに精出します。
ところで、井伊大老死亡後、密勅(戊午の密勅)問題に関する水戸家処分問題が残っていて、これについては、密勅を受けるのに動き回った個人の問題(関係者は安政の大獄で殆ど死罪でした)だけではなく、水戸家自体の取り潰し論が強かったのです。
幕府を差し置いて直接密勅を受けるなどと言うことは、頼朝と判官義経の例から分るように武家としては許されないことです。
しかもその内容が、実質的な徳川批判ですから、なおさらでした。
会津の松平容保は、水戸家とは姻戚関係・養子関係などで深い関係があったこともあり、井伊大老死亡後水戸家処分を穏便に済ますよう動き回って成功し、一躍幕閣で注目を浴びる人物になったのです。
松平容保の守護職抜擢は、水戸系に権力が移りつつあるときの、論功行賞としての意味あいもあったでしょう。
会津は、当初固辞していますが、他に所司代を置くことなどの何カ条かの就任条件を出して就任後は、1000名もの兵を引き連れて上洛し、徳川家としては、武断政治を明らかにします。
と言うよりも、もうそのころは、島津久光も兵を率いて上洛しているし、武力を背景にしないと発言力がなくなりつつあったともいえます。
こうして朝廷では一会桑政治(一橋、会津、桑名3家)が展開されるのですが、朝廷内の政治工作がうまくいかず、長州に負けそうになると、朝廷内の反幕派の公卿をクー・デ・ターで追い払い(7卿の都落ち)禁門の変を引き起こし、長州を完全に朝敵にしてしまいます。
1見武断政治が奏効したようですが、いよいよ武力決戦しかないとみんなが思うようになってきたのですから、体制側としては良かったか?というところです。
このように、幕閣の一連の強行突破政策は、井伊大老死亡後もまったく変わっていないし、一旦やりだした以上は、変えようがなくなっていたのでしょう。
こうして名の知れた個人は大獄で処刑し、水面下の草莽の浪士は新撰組や会津の見廻り組などによるテロで葬り、言うことの聞かない藩は武力で叩き潰すという3点セット・武断政治を採用し、その総仕上げとしての慶応元年1865年第2次長州征伐実行となるのです。
この第2次長州征伐も、当時朝廷の禁裏守衛総督役についていた慶喜が勅許を取って始めたものです。
考えて見ると、体制側と言うものは治安維持がその大きな存在意義ですから、政権が自らテロ組織を作るようになれば、その政権の終わりを宣言しているようなものです。
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