09/04/04
幕末の政治模様 8(慶喜と水戸天狗党事件3)
攘夷思想で決起して失敗した例では、五條代官所を襲撃した天誅組事件(文久3年1863)なども時代錯誤性では同じだったかも知れません。
私の個人的経験を紹介しますと、歴史小説というのかどうか分りませんが、天誅組の首謀者の一人、藤本鉄石を主人公にしたチャンバラ小説を読んだのが、この手の愛読者になった始まりでした。
まだ、歴史を習ったこともない子供でしたから、何のことわからないまま読んだのですが、(私の読書はみんなこんなもので、トルストイなんかも意味不明のまま読み漁ったものです)未だに藤本鉄石と五條代官所のキーワードだけは覚えているのです。
ですから、彼らの奥深い思想がどうであったかまでは分りませんが、結果から見ればそういうことになるでしょう。
話を戻しますと、那珂湊での会戦以来負けてしまった水戸天狗党は、領内でのた打ち回っていても、ジリ貧ですから京に上って、京にいる慶喜に訴えて攘夷の決行を求めることにしたものです。
勿論、どっちつかずでふらふらしている慶喜に対する、武力応援の意味あいもあったでしょう。
こうして遠路はるばる京にいる慶喜を頼りに移動・行軍していくのですが、決死の覚悟で決起し、戦闘の実戦慣れしているこれだけの大軍が、大砲何門も引いてやってくるとなると大変です。
西南諸藩と違って、2〜3万石から5万石大きくて10万石程度の小藩しか存在しない関東から信州〜中部地方では、戦闘参加できる若者は百数十人しかいないというところが多くて、大砲もないし、とても戦えません。
どこでも台風一過を待つようなもので、幕府の命令で出動しても、空砲を撃って形だけの抵抗しか出来なかったようです。
こうして、これだけの大軍が、移動しているうちに雪の季節となり雪の中を行軍して、最後に越前へ山越えしていくのです。
ところが、慶喜は慶喜で殆ど京にあって、幕閣内と朝廷の公卿や雄藩との間の難しい綱渡り政治をしているのですから、(そのころには、薩摩も単なる佐幕派ではなくなっていました)とても彼らを救済する力はなかったのです。
また、彼らが京に登ることで彼らの武力を背景に攘夷派の慶喜の後押しを出来る政治状況ではなくなっていました。
当時薩長も、開国必要派に思想変えしていたのですから、もう攘夷派の出る幕はなかったのです。
慶喜は彼らを応援するどころか、彼らが京に迫ってくると、朝廷から討伐命令の指揮官に任ぜられてしまうのです。
天狗党は、慶喜を頼りにし、または慶喜の攘夷思想を応援するつもりではるばる水戸から艱難辛苦してやって来たのに、ようやく敦賀に至ってみると、その頼(たのうだ)人が自分達の討伐軍の大将と知っては、天を仰ぐしかなかったでしょう。
千里の道を遠しとせず、せっかく決死の覚悟で雪の越前越えをした彼らも、これでは戦えないと観念して戦わずして降伏したのです。
何しろ古くは、越中富山城主の佐々成政が雪の中を飛騨へ越えて、北陸路にある柴田勝家と徳川家康との連絡をしたのが有名ですが、天狗党は使者ではなく1000名もの軍そのもの(大砲まで引いているのです)が雪の山越えをしたのですから大変なものでした。
この天狗党は、降伏したのに殆ど全員死刑でした。
天狗党の悲劇と言われるゆえんです。
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