09/03/04

幕末の政治模様7(慶喜と水戸天狗党事件2)

天狗党は水戸藩北部にいったん追い詰められてから、今度は武田耕雲斎が総大将となって、約1000名の部隊で、大砲まで備えて各藩を席巻しながら、越前敦賀まで移動したのですから、幕藩体制化での規模としては、空前絶後のことでした。(台風が逆に動いたようです)
大塩平八郎の乱といっても、場所的にはほんの局地的ですし、数時間で鎮圧されてしまったのです。
大塩は、与力だから大きく取り上げるのだと言うかもしれませんが、水戸家は与力どころか御3家ですし、その大藩の家老職が総大将になって大砲まで備えて行動しているのに何故、無視されるのでしょう?
形式的には藩としての正式な行動ではないと言う点も指摘されそうですが、それならば、大塩平八郎も辞職してからの元与力の反乱でした。
歴史教科書ではまったく無視されているのは、攘夷思想(時代逆行・・・・本来反動です)で終始し、時代の進展に何の効果もなかったからでしょうか?
現在の野党はイラクへの自衛隊派遣反対ですが、かといって彼らが政権を取っても反対し続けることが可能かと言う吟味がありません。
スペインのように、本当に引き上げる覚悟があるのかどうかです。
ただ、国民多数の反対があるなら、政権攻撃になるから反対して非難していると言うだけのように見えます。
前々回のコラムで、長良川河口堰の問題に対する社会党の対応を書きましたが、野党も批評家ではなく政権を狙うつもりなら、自分が政権を取ったらこうすると言う手当てまで考えて論戦してほしいものです。
当時の攘夷思想では、本当に攘夷一点張りでやっていけるのかと言う視点が抜けたまま、単に幕府批判に終始していたのですから、無責任野党と同じです。
慶喜は、徳川斉昭の息子で、展望のない攘夷思想で凝り固まっていましたから、野党的立場の勤皇の志士や雄藩に人気があって後見職についたのですが、責任者に就任して見ると実際との食い違いにうろたえたのでしょう。
いわゆる一会桑体制を作りますが、彼は、攘夷派から始まっていますので、上洛した家茂側近らと馬が合いません。
家茂が怒って江戸に引き上げるとまで言い出すと、結局は兵庫開港の勅許を求めざるを得なかったのです。
こんなことで幕閣官僚とはこじれにこじれ、他方で薩摩との関係もこじれ始め決定的反目関係になっていきます。
こうした孤立無援状態で、慶喜は15代将軍就任となるのです。



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