09/29/03

明治政府と学制改革(中央集権国家の基礎)7

これまで見てきたように、福沢諭吉、大隈重信、新島襄らによって、私立の教育機関も生まれていましたが、当初は政府の学制の埒外にあったのです。
大学規則および学制で、全国で一つだけ作る予定であった大学としての、東京帝国大学でさえ、明治19年にやっと設立できたことからもわかるように、政府も当初は、小学校の普及に精一杯であったことも、その1因でしょう。
法律上、大学を国内にひとつだけ設立し、それを最高学府とし、その他の教育機関はその下風に立つことが、前記の 09/25/03「明治維新と学制改革(大学規則と近代化) 3」で紹介した大学規則で、決められました。
今でも尊敬か、その割に能力がないと言う軽蔑の意味か分りませんが、大学を出た人を「最高学府を出ているのだから」と、言う人がいます。
この「大学規則」を知っている人かも知れませんね。
全国でたった一つであれば、まさに最高学府ですが、今のように、何十あるのか、何百あるのかさえ分らないほど、大学が乱立していますと、最高学府を出たんだから「しっかりしろと言われてもねえ」と言うところです。
話を元に戻しますと、大学規則で、唯一無比の最高学府としての大学を中央に作ることを決めたのは、新政権発足にあたって、中央集権国家を作る以上は、権威の源泉である有能な人材を、政権が確保していると言う宣伝と、実際の必要があったからでしょう。
司法権の独立のためには、最優秀な人材が司法部に集まる必要があることは、06/13/03「3権分立5」前後の連載コラムで書きましたが、いかなる制度もその存立の根本は、人材にあるのです。
徳川時代末期のごとく、有能な人材が、各藩や、在野にあったのでは、幕府権力の威令が行き届かなくなるのは、理の当然です。
国を憂える有能な人材は、幕府情報に接するよりも、各地にいる私塾の先生や人物の謦咳に接するほうが、価値があったのですから、徳川末期は、知識、思想競走の側面から見ると、一種の戦国時代であったと言えるでしょう。
こうして、大政奉還のずっと前から、幕府の威令が失われてしまっていたのですから、内部的には、崩壊していたのと同様でした。
この経験を十分知っている新政府としては、中央に唯一無比の最高学府を設置して、全国の優秀な人材を、中央で確保しようとしたのは当然の成り行きでしょう。
また、そういう目的ですから、最高学府が政府と対立するのでは意味がありませんので、当然のことながら、政府の支配下におくばかりか、卒業生は上から順に、政府要人の供給源にすることになりました。
このように権力構造から考えていきますと、東京帝国大学が、官吏供給源になったのは、生い立ちからして、宿命であったとさえ言えるでしょう。
こうして、最優秀者から順次、高級官僚や帝国大学の教授などになっていき、落ちこぼれだけを、民間に放出する現在のピラミッド構造の原型が形作られていくのです。
現在地方の時代と言って、予算問題がたけなわです。
話がかなりそれますが、次に地方自治について少し説明しましょう




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