09/27/03

明治維新と学制改革(学制と教育令) 5

文部省設置の翌5年には、文部省の立案によって、太政官布告「学制」が公布されました。
この学制によって、大学校、中学校、小学校の順序が定められ、この基本的枠組みは今に至っているのですから、重要な太政官布告でした。(ところで、明治政府は、何でもと言ってよいほど、大、中小の区分けが多いですね)
「学制」を紹介しておきましょう、


・・・・・・・自今以後一般の人民華士族農工商及女子必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す人の父兄たるもの宜しく此意を体認し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
右之通被 仰出候条地方官ニ於テ辺隅小民ニ至ル迄不洩様便宜解釈ヲ加へ精細申諭文部省規則ニ随ヒ学問普及致候様方法ヲ設可施行事
明治五年壬申七月
太政官
○明治五年八月三日文部省布達第十三号別冊
○学校ノ事
第二十章学校ハ三等ニ区別ス大学中学小学ナリ学校教間書ハ別冊アリ

こうして、身分男女の差なく「邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と言う後世に残る名文句で、学制が定められましたが、以前に戸籍制度のコラムで紹介しましたように、国民にとっては大変なことでした。
米一升の代金が7銭の時代に、一ヶ月の授業料が1人50銭もしたのですから、学校反対の一揆が起きたほどでした。
最初のころの授業内容は、「学問のすすめ」や民権運動家による著作物など啓蒙的なものが多かったようです。
なお、前々回のコラムで紹介した松本市にある、開智学校を見学すると、このころの教科書を、教室に展示していますので見ることが出来ます。

ところが,自由民権運動が盛んになってきますと、政府が警戒するようになって、教育内容を統制する必要性に、気づくようになります。
明治12年には、前記の「学制」を廃して、これに変わる教育令が発布され、公私立学校すべて文部省の監督を受けることが第1条で明記されました。

教育令(明治十二年九月二十九日太政官布告第四十号)
明治五年八月第二百十四号ヲ以テ布告候学制相廢シ更ニ教育令別冊ノ通相定候此旨布告候事
教育令
第一条 全国ノ教育事務ハ文部卿之ヲ統摂ス故ニ学校幼穉園書籍館等ハ公立私立ノ別ナク皆文部卿ノ監督内ニアルヘシ
第二条 学校ハ小学校中学校大学校師範学校専門学校其他各種ノ学校トス

私人が設立した私立学校まで、文部省の監督下におかれることになったのですから、この時点から、思想統制が始まったと言っても良いでしょう。
また、画一教育、教科書検定の原点がここにあり、以後、日本国民の窮屈な性格が形作られるようになってきました。
皆さんご存知の緒方洪庵や、吉田松陰などの私塾で、何を教えるかについては、幕府や藩が介入せず、自由であったと私は思っています。
そうだとすれば、公私を問わず教育内容に国家が介入する制度が、このとき初めて出来たのですから、この「教育令」は、学制に次ぐ現在までの教育行政の原点となったものと考えられる重要な布告だと私は思います。
さらに、大日本帝国憲法発布に併せて、教育の(精神的?)基本法として・有名な教育勅語が発布されます。
これも、有名ではありますが、実際に見た人は、少ないでしょうから、次のコラムで紹介しておきましょう。
こうして、明治政府による思想統制が、徐々に進んで行くのです。




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