09/24/03

教育改革・・・・明治維新と学制改革(学制) 2(復古政策)

前回のコラムで紹介しましたように、明治維新ころには、国民の教育水準はかなり高くなっていたのです。
幕府を倒して成立した明治新政府は、当然のことながら、幕藩制社会(の否定から出発)に対する抜本的な改革に着手しました。
ところが、尊皇攘夷の看板の下に、維新政府を樹立した以上は、これを無下に捨て去ることは出来ません。
他方で、改革しなければ、とても諸外国に対抗できないことも明白な現実でした。
王政復古と急激な改革の両側面が、厳しい国際環境下における我が国の民族的・国家的自立の確保のために、ともに必要とされたのですから、大変なことでした。
しかし、維新直後には「復古」の方向から始めるしかなかったのでしょう。
王政復古を、心底から信じて、このために血を流してきた功労者が多いのですから、あたりまえですよね。
そうなると、江戸時代の制度関係を先ず否定する点は当然として、江戸時代を否定した結果生じた空白を埋めるために、奈良平安時代の制度や思想に置き換える(時代逆行的)部分と開明的な欧米化した他の制度に置き換える先端部分が入り混じることになりました。
さしあたり、9月15日のコラムで書きましたように、維新直後には、太政官制度を復活して、王政復古であることをバーンと打ち出しました。
さらには、幕府に代わる朝廷の権威を民衆に周知するために、文明開化に支障の少ない分野である宗教関係で、「復古」的な発想での教化政策が次々と、採用されていきます。
明治3年1月の「宣布大教詔」の発布と宣教使による大衆教化の実施、5年3月教部省の設置、及び翌月の「教則3条」の公布とその普及を担当する教導職の設置をするなどして、神道重視政策を進めました。
これで勢いがつきすぎた末端では、神仏分離や排仏毀(き)釈の極端な神道主義的行動まで生まれてきたのです。
こうして、維新政府の教育政策は、まず京都において、復古の期待の下に開始されました。
元年2月には、学校掛が任命され、学校掛はその翌月には、国学思想に基づく奈良時代の大学寮制度を模範とした学校制度案である「学舎制」を提案しています。
さらには、朝廷の儒学校であった「学習院」を母体とする「漢学所」と、国学を教授する「皇学所」とが設立されるところまで行きました。
このように、復古主義者に若干の良い思いをさせましたが、東京遷都の後は、政府の京都での学校計画は、いつの間にか沙汰やみとなってしまいました。
すごい、狡猾さですよね。
狡猾さといえば、東京遷都も、京都の公家を黙らせるために、天皇の行幸を仰ぐといって東京へ行幸し、これを繰り返しているうちなし崩しに事実上遷都してしまったのもすごいことでしたよ。
今の一流企業も、初めは東京本社などと訳のわからない名称を作り、いつの間にか社長や重役は東京本社に常駐になってしまい、大阪本社は留守部隊だけになってしまう例がありますが、この遷都のやり方に倣ったのでしょうね。
一方東京では、旧昌(しょう)平坂学問所を国学を中心に漢学をも併せた大学校として改称し、旧開成所を開成学校、旧医学所を医学校としてその分校にするという構想のもとに、2年6月には、「大学校」が設立されました。
同年7月には、官制改革により教育行政と教育活動との二つの機能を併せ持つ「大学校」が発足しましたが、12月には、「大学校」が「大学」と改称される目まぐるしさです。
このとき、旧昌平坂学問所跡の本部と国学、漢学の学校とを「大学本校」として、開成学校を「大学南校」、そして医学校を「大学東校」とそれぞれ改称して、その下の分校扱いとして、国学者など復古主義者の気持ちをくすぐりました。




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