09/13/03
政治と権謀術数・岩倉使節団 2
一行は、国民の期待を担って出発したものの、条約改正は、一筋縄ではいかず、何の成果もなく帰ってくるしかなかったので、名誉欲に駆られた連中を揶揄する狂歌(落首?)で話題にされるなど、大恥をかきました。
「条約は結び損なひ、金は捨て 世間へ大使(対し)なんと岩倉(いわくら=言うのか)」
結果的に物見遊山で終わったとはいえ、大物らが直接外国を体験したことは、大きな財産ですし、文化史的にも、そのときのいろいろな写真が残っていて、今になれば役に立っています。
このように出発当初は、「条約改正使節団」と呼ばれていましたが、うまくいかなかったために、後に西郷ら留守部隊を追い出して、実権を握った大久保らの都合が良いように、後日「視察団」と呼ばれるようになりました。
何年も掛ける視察は、本来中堅以下の人材がするものであって、政府トップグループが大挙して、何年も掛けてするものではありません。
また、実際既に多くの青年を留学させていたのですから、いまさら、政権中枢がするべきものではなかったのです。
「昔は、のんびりしていた時代なんだよな」と、思う方が多いと思いますが、幕末にあれだけの偉業を成し遂げた高杉晋作の一生は、わずか27歳、、吉田松陰29才、坂本竜馬が32歳の一生でした。
今の長寿社会に比べて、当時の1年、2年は、もっと内容的に長く充実していたのですから、2年の空白と言えば、想像を絶するような長さだったと思いますよ、
2年ほど留守にしている間に、明治初年の最も大変な時期の諸改革は、学制改革、士族問題や韓国問題を含めて西郷さんら留守部隊が、大方うまく片付けていて混乱は収まっていたのです。
ところで、西郷ら、権力に淡白な人材ばかりが残っていた留守部隊の施策が、却ってうまくいったことと、政治のプロたちが、西郷らを追い出した後の施策が国民の支持を受けず、却ってギクシャクしたのですから、面白いですね。
この歴史的教訓はなんでしょうか?
世界史的に見ても、政権トップグループが、2年間も留守にしたことはめったにないでしょうから、重要な歴史的実験だったと思います。。
アメリカでは、平均8年で政権交代して、素人集団が政権担当する仕組みですから、私は「素人ばかりで世界帝国を運営しょうとするから無茶苦茶なんだ」と、これまで考えていましたが、こうして考えますと、政治にプロは要らないのではないかと思えてきました。
長野県知事が1人でがんばっていますが、日本では、役人どころか政治職である、副知事を決めるのにも議会の同意が必要です。
アメリカのように、上級役人までそっくり入れ替えられる制度なら、どれだけすっきりするかと思います。
しょっちゅう入れ替わっていれば、民間にも人材が存在することにもなります。
法曹一元の思想も同じことでしょうね。
植木鉢の根は、ときには、そっくり出してほぐしてやらないと駄目になるのと同じで、たまに、入れ替えが必要なのです。
西郷さんらが、維新初期の混乱期をうまく乗り切ったことから考えますと、権謀術数に長けたプロたちがいなかったために、政治をぐちゃぐちゃにする弊害から免れたのかもしれませんね。
政治は、政策と、トップの人柄が重要なのです。
江戸城明渡しその他、トップ間の人格・信頼が重要であったことは歴史が証明しています。
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