08/28/07

三途の川と通行料(6文銭)

そういえば、三途の川をどうやって渡ったのでしょうか?
実はあの世とこの世を分ける三途の川といっても、それほど広い川ではなかったようです。船に乗るようあの大掛かりなものではなく、歩いて渡ったらしいのですから、今で言えば、伊勢神宮にある五十鈴川の川幅程度あったのでしょうか?
もちろん五十鈴川は、三途の川をイメージして設定したものではないでしょうが、(伊勢神宮にクレームをもらいそうです)三途の川の渡り方は、古代には、生前の生き方によって金銀七宝の橋を渡れる善人と浅瀬を渡る軽い罪人・ものすごい深い瀬を渡る重罪人の3方法があったようです。
これが、平安時代以降は、6文銭を持って行って、わたり賃を渡しさえすれば誰でも渡してくれることになって来たようですから、以後三途の川は大した関門ではなくなったと思われます。
ついでに、古代には、和同開珎以降皇朝12銭とか言う銅銭が順次発行されていましたが、銅の不足から品質低下によって、いつの間にか廃れてしまい・・戦国時代ころまでは、わが国では、中国から貨幣を輸入していたのです。
慶長小判・大判といっても、決済手段としての貨幣と言うよりは、今の記念貨幣あるいは、純金製の細工物の域をちょっと出た程度の事で、庶民が日々利用する一文銭貨幣が出回ったのは、江戸時代・・寛永通宝からでしょう。
まして、一文、2文と言う単位が一般的になったのは、(古代の貨幣は畿内の一部しか通用していなかったのです)まさに江戸時代のものですから、江戸時代といっても貨幣経済がいきわたってからできた話でしょう。
ですから、平安時代に本当に6文銭があったのか、疑問ですが・・・・大体この手の話は元々合理的ではないのですから、その程度にお読みください。
お金を持っていかなければ、追い返される・・生き返れるかと言うとそうではなくて、ミグリミ剥がれる仕組みでした。
じゃあ真夏に死んだら却って気持ち良いじゃあないか?と言うことですが、このように考え出すと訳が分からなくなってきます。
三途の川の渡り方の変化は、木曽の御山にロープウエーで登って行けるのと同じで、いろんなことがらが、時代の進展によって便利・・安直になっていく一例です。
彼岸と此岸を隔てる川が、大した境界ではなくなってくると、(今では、ETC車で渡ると数秒かな?)ボケてしまって、あの世の人がこの世に戻って来たのか、本籍の分からない人が増える道理です。



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