08/23/06

裁判員制度6(制度選択権の有無と憲法違反?4)

今では、民族差別もあまりないし、人種差別もあまりない社会になりつつあるアメリカでは、陪審制選択者が減っているのです。
(公的差別が少なくなって来たと言う意味で、実質的差別がなくなったというのでは有りません。)
マイケルジャクソンやシンプソン事件など国民的人気に自信のあるものだけ?が陪審制を選択すれば成功すると言う時代です。
以上大分話しが逸れてしまいましたが、本来この制度の始った歴史から見れば、同輩の裁判や公開を求めるかどうかについては、国家が選択権を持つのではなく、被告人が選べるようにすべきだと言う意見です。
それなのに、我が国の裁判員制が、この被告人側の選択権を奪っている仕組みになってしまった原因は、被告人の利益のために同輩の裁判を保障する・・陪審制度が発展して来たのに対し、わが国では、国民の司法参加と言う大上段に構えた形で始っているマイナス面ではないでしょうか。
もしかして、日本でも、大スターが事件を起こすと無罪になる可能性があるからと言う俗な理由で、選択権をなくしたのでしょうか?
でも日本では、裁判員を拒否できないだけですから、大スターもやはり裁判員の法廷にかかるのですから関係ないですよ!
ところで、これからは、裁判社会であるから、国民が司法に主体的に参加するための訓練をするというような文書を見たこともあります。
しかし、「学校のお勉強だけで充分です」と言う国民の方が多いのではないでしょうか?
民主主義(を教えてやると言うのですが・・・昔共産主義者は自分のことを前衛と称し、遅れた人民に教えると言う姿勢でした)教育のためとは言え、軍事調練に駆り出された戦前の再来みたいで、嫌な感じです。
民主主義のためでも軍国主義のためでも、国家の都合だけで国民を駆り出す発想自体が、問題です。
裁判員制度の選択権を、国民・・被告人に認めないのと同じで、今回の制度には、国民の立場が抜けているのではないでしょうか?
陪審制は、草の根から始った権利ですが、(それでも、アメリカでさえ、これが重荷になっているとも言われています)日本のようにお上の方から「勉強になるからやりなさい」と強制するのはどうかと思いますよ!
まして、量刑判断まで、国民に要求するのは、国民の能力に余って、贔屓の引き倒しみたいなものではないでしょうか?
司法権の独立も、陪審制度も罪刑法定主義もそれぞれ存在意義があって、生成発展して来たに過ぎないのです。
(何とか主義とか何とか制度と言うのは、あとからついた名称・・敬称でしかないのです。
・・そうしたドクトリン自体が一人歩きするのは、大方間違いのもとです。)
08/13/06「司法行政と司法権の独立2 (必要性の基礎)」や08/15/06「罪刑法定主義と事後法処罰の禁止3(極東軍事裁判の有効性)」などのコラムで紹介してきましたが、わが国では制度より先に理念から入って来ることが多かったので、教条的な理解になりやすいのです。



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