08/23/06

裁判員制度5(制度選択権の有無と憲法違反?3)

民衆の監視が必要なのは、佐倉宗五郎のような義民に対する裁判だけで、普通の飲酒運転事故やひき逃げ、殺人、強盗、強姦などはの普通の事件では、むしろ「親戚や大勢の前で裁いてくれ」と言う人の方が少ないでしょう。
ですから、被告人や民衆の側から不当な裁判をさせないと言う権利から始まった制度と言う理解からすれば、被告人が裁判の不当性を訴えたいときだけ、すなわち被告人側に選択権を認めるべきなのです。
そして被告人に選択権を認めれば、殆どの事件は通常訴訟を選択することになる可能性があるのですが、なぜか日本の裁判員法ではこれが許されないのです。
裁判員法制度で審理するのかどうかの決定権は、裁判所だけにあって、被告人には通常手続でして欲しいと言う意見を言う権利もないのです。
「裁判の公開は、政府の権利であって国民の権利でない」と言う明治以来の基本的位置付けから、このような法律が生まれて来たのでしょう。
公開の法廷が、憲法に規定された場所を見ると、基本的人権の章にはなく、政府機関のひとつである司法権の章に書かれているのも、その思想の現れでしょう。
アメリカでも民事訴訟では、陪審を選択する事件は、皆無に近いようですし、(必要性が高いのは、消費者訴訟など政治的色彩の強いものだけで、個人的な建築紛争や貸金訴訟、離婚訴訟では意味がないでしょう)、刑事でも今は殆ど選択されないようです。
どうして、我が国では当事者に選択させないのでしょうか?
政府は、裁判所の運営権者であって、公開する権利を保持したいからでしょうか?
そう言えば、戦前の裁判所構成法の時代にも、公開の法廷の規定の全般的なトーンは、法廷の秩序維持、すなわち法廷運営権利者の立場が濃厚でした。
(みだしなみの悪いものに対し、退廷を命じられる例外規定だけが、書かれていたのを紹介しました。)
話を戻しますと、陪審制発祥の地である英米でも現在では、階級闘争的あるいは、異民族支配がなくなっているので、世界的に陪審的精神を実現する必要性が減少しているのです。
・・・靖国参拝問題で騒がれる東京裁判が、我が国でいつまでも尾を引くのは、異民族に裁かれた点に納得しきれない問題があるからでしょう・・・・。
現在では、イラクのフセイン元大統領もイラク国民の法廷で裁かれているのは、こうした歴史経験によるのでしょう。
フセイン元大統領に言わせれば、抽象的なイラク国民法廷ではなく、スンニ派による法廷が望ましいでしょう。
これから陪審制を維持するならば、こうした国内人種別、宗派別の裁判が望まれるべきであると言う意見を、01/19/05「陪審・・・民族別裁判所の提言と日本の陪審の必要性?」前後で紹介しました。
実際アメリカの陪審員選別での事前テストで、最も入念・神経質に行われるのは、人種偏見や性別偏見(ジェンダー)に関するチェックです。



関連ページリンク

Powered by msearch
稲垣法律事務所:コラム:検索

検索ベースはこちらから

 


コラムTOP

リンクを当コラムにはられる方はお読み下さい

©2002, 2003, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design / Maintained by Pear Computing LLC



ブログ
株式投資