08/17/06

警察署長から簡易裁判所へ2(違警罪即決例3)

治罪法と刑法の制定経過については、07/08/06「明治以降の刑事関係法の歴史6(旧刑法・治罪法1)(実体法と手続法)」以下で、既に紹介しました。
明治初めの20年から30年間は、言うなれば各種制度・法律は、まだ完全には出来上がらず、そのうえ、いろんな制度を造ってもこれを担う新しい人材も揃わず、混沌とした時代であったと言えるでしょう。
こう言う時代には、過渡的な制度が必要であったのです。
司法卿による各地方裁判所の監督の必要性も、こうした地方の人材不足から始ったことを、07/31/05「検察官3(行政庁優位2)」前後のコラムで紹介しました。
現在の警察署の配置人員と江戸時代の町奉行所の構成人員の割合を、データ的に比較したことがありませんが、帝国大学が出来たばかりの明治時代の大学生の数と、今の大学生数の割合と同じくらい増えているのではないでしょうか?
江戸時代の町奉行所は、今よりはずっとエリート組織であって、警察機能よりは、裁判所的機能の方が強かった可能性があります。
この町奉行所の権限が、明治政府になってから、東京市(行政府)と警察と裁判所、検事局に分化したのです。
(治罪法から裁判所構成法〜裁判所法・検察庁のコラムで連載しましたが、日本の制度・歴史は、機能分化の歴史といえるものです。)
江戸時代にも、軽微な犯罪については、もともと与力まで行かないでも、その下位の同心段階で処分できる権限があった可能性があります。
(私の想像ですが、権限が下へ下へ降りて行くのが我が国の慣例です。)
同心にも一定の階級があって、当然その地位にふさわしい人が決裁していたでしょうが、同心の役職の詳細については、11/01/04「江戸時代の裁判5(同心3)」のコラムで紹介しました。
今の警察官の階級が、警視総監に始って警視正警視・・・と以下階級社会になっているのと同じです。
このうち現在の基準では、警視以上が署長適格者ですが、当時警視と言えば大したものだったでしょう。
江戸町奉行所のように、江戸に一つしかない(南北でしたが、交代制でしたので結局は一つです)のなら良いのですが、そのうちに、一つの県や市にいくつも警察署が出来てきました。
こうなると、これの統括役・・・・その上役として警視正が出来、更には、警視総監まで出来てしまったと言うところでしょうか?
警察官の種類については、後に警察法の紹介で詳しく書くつもりですので、このくらいにして置きましょう。



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