08/17/06

警察署長から簡易裁判所へ1(違警罪即決例2)

ここでイキナリ、07/17/05「奉行所から警察署へ・・違警罪即決例1」の続きとなります。
12/01/04「簡易裁判所とは?2・・・・裁判所法 8」の続きでもありますので、合せて御読みください。
上記コラムで紹介しましたが、戦後、違警罪即決例の権限が警察署長権限から、新しくできた簡易裁判所に移されたのは、3権分立の徹底と言う側面もあったでしょう。
ただし、それだけでなく、大卒その他の上級レベル者が増えてきて、すべての裁判がある程度の有資格者で賄えるようになったこと・・・・人的インフラの整備が進んで来た面にあるともいえるでしょう。
そのうえに、簡易裁判所判事は地裁判事が65歳の定年後も更に70歳まで勤められるところから、地裁判事の定年後の天下り先にもなっているので、この面からも人材が足りるようになったのでしょう。
明治政府が出来たばかりのときには、理念としては、警察と裁判所は別にしなければ不平等条約の改正にも支障があるなどが分かってはいたものの、さしあたり人材が足りないから軽い犯罪は従来どおり、元の奉行所である警察署・・現場で処理するしかないという時代でもあったでしょう。
ただ、そうした、さしあたりの権限がいつまでも残るところが、役所仕事の怖さです。
ちなみに、違刑罪裁判所制度は、今でもフランスにあるそうです。
明治の法制度は、これまで紹介しているように、明治6〜7年ころからフランスのボワソナード教授によって起草されていましたので、違刑罪制度もフランスに倣った可能性があります。
ただし、フランスの制度はレッキとした裁判所であって、警察署長が処罰を決めることが出来た我が国の制度は、日本得意の和魂洋才?と言うものだったのでしょうか?
このような関心から、昨年(2005年)7月17日以降明治初めの裁判制度変遷の紹介に入ってから、これに関連する刑事関係法の歴史を書いているうちに、途中いろいろ横道に入ったりして、1年1ヶ月も経過してしまった次第です。
大学が初めて出来たのは、明治19年であったことを、09/29/03「明治政府と学制改革(中央集権国家の基礎)7 」の前後で紹介しました。
明治憲法(大日本帝国憲法)は明治22年ですし、その前後約10〜20年間というものは、民法や商法、刑法などのいわゆる六法典の編纂に追われていたのです。



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