08/14/06

戦前の司法行政と司法権の独立5(大津事件3)

8月13日・・・・・・2「戦前の司法行政と司法権の独立1」で書いた大津事件の続きです。
このときに、ロシア皇太子ニコライの親善訪問があって、その旅先の大津で、皇太子の警備の巡査津田何某が、いきなり斬りかかったのです。
日露戦争(1904年)には、まだ少し間がありますが、日露はその前から少しづつ緊張関係が高まっていく関係にあったのですが、緊迫した事態下では、事態打開に向けてこのような危険な政治演出・・親善訪問が却って計画されるものです。
第1次世界大戦も、サラエボ訪問中のオーストリア次期皇帝に決まっていた大公夫妻に向けての一発(実際は数発でした)の銃声から始ったものでした。
世界史の重要な一コマとして御存じの方が多いでしょうが、日本とロシア間でもこの小型版が発生していたのです。
この皇太子は、後のロシア革命で1918年に処刑される最後の皇帝ニコライ2世です。
日本の右翼はなぜか短刀や刀が好きなので、この程度で済んで良かったのです。(オーストリアのようにピストルなら大変な事件でしたよ!)
右翼の短刀好きについては、10/29/04「テロのルール化3(文化力)」のコラムで、少し書きました。
これに対し、ロシアから攻撃されるのを恐れた政府は、大慌てで、その2日後には明治天皇自ら、大津まで見舞いに行ったり、国をあげて心配したりして強国ロシアに対し、精一杯の誠意を示します。
政府は、この事件に対し、皇族等に対する大逆罪の適用を求めて(死刑があったので)圧力を掛けたのですが、ときの大審院長の児島惟謙が、絶対に譲らなくて、普通の殺人未遂罪しか適用しなかったのです。刑法上は、外国の王族は日本の皇族とは言えないと言う解釈です。条文の手当てが足りなかったことが、分かったのですが、後の祭りでした。政府は国際関係を重んじて法を曲げてでも、重罰にしないと大変なことになると言う立場でしたが、裁判所としては法は曲げられないと言う筋を通した事件でした。
13日に条文で紹介しましたが、裁判所は司法大臣の下位に立つとは言え、司法大臣は具体的事件処理に口出しせず、抽象的監督しか出来ない仕組みだったからこそ出来たことです。現在の検察庁法でも、法務大臣は検事総長に対し、一般的指揮しか出来ないことを既に
08/15/03「検察の独立性 2」のコラムで、検察庁法を引用しながら紹介しました。



関連ページリンク

Powered by msearch
稲垣法律事務所:コラム:検索

検索ベースはこちらから

 


コラムTOP

リンクを当コラムにはられる方はお読み下さい

©2002, 2003, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design / Maintained by Pear Computing LLC



ブログ
株式投資