08/05/06
法服・・・著と着の分離2
明治以降の正式文書も、漢文(レ点や一二三で元に戻ったりする形式)ではなく、漢字仮名交じりのいわゆる読み下し文形式になっているのです。
これまで、あちこちで明治以降の各種法令の条文を紹介していますので、読み返してみてください。
刑事法の歴史で書いてきましたが、明治4〜5年ころから、既に清律から西洋法の継受に方針を切り替えていたことからも分かるように、事実上日本では、中国文化に重きを置かなくなっていたのです。
文化の逆転現象が日清戦争の結果、白日のもとに曝されますと、「至りて着く」と読むなら、到着の方が分かり良いと言う安直な論理が流行ったのではないかと言う私の安直な憶測です。
(こうした文書形式の変遷経過については、専門書には当然何か書いているでしょうが、国語に詳しくないので、私はド素人の思いつきを楽しんでいるだけです。)
このように、何故近代になって逆の「到着」になったのか?考え出せばキリがないのですが、話が横へそれすぎますので、この辺で詮索は止めましょう。
話を法服の着用に戻しますと、「著」は、着ると言う意味と著すと言う意味を併せ持っていたのですが、戦後別々に書き分けるようになったのは何故でしょうか?
「著」と「着」がもとは同じ漢字であったと言えば、裁判をする人である判事と裁判を請求をする検事が、同じ司法省管下の役人であって、裁判所構成法に法律上同居し、建物も同じ裁判所内に付置されていたなどと言うのを、現在人が聞けば、驚くのと似ているでしょう。
しかし、江戸時代の奉行所の構造を考えれば分かりますが、吟味与力は、奉行所の役人であって、かつ捜査兼訴追側でも有るし、裁く側でもあったのですから、明治時代の考えはそれほど突飛ではないのです。
むしろ同じ与力と言う呼称(一つの役職)から、判事と検事を分化させただけでも進んでいたことになります。
戦後、裁判所構成法が裁判所法と検察庁法に分かれて、裁判所と検察とはまったく別の役所になったのは、新憲法原理(3権分立)から当然の帰結ですが、漢字の「著」は戦後「着」と「著」に何故分かれたのか不思議です。
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