08/25/05
英連邦の成立とブロック経済化
イギリスの植民地体制は、植民地の経済力の向上と本国自体が、アメリカやドイツの追い上げでジリ貧になっていたので、第1次世界大戦で植民地軍の協力を得ざる仰がざるを得なかったのです。(グルカ兵など)
その結果、1919年〜20年にかけて開かれた第1次大戦後のパリ講和会議にはカナダ,オーストラリア,南アフリカ連邦,ニュージーランドの四つの自治領とインドがイギリス本国とは別に独自に代表を派遣し,ヴェルサイユ条約にも独立国として署名していたくらいに、地位が上昇しておりました。
以後徐々にその他の植民地も含めて、本国と植民地の間は対等化に向かっていたのですが、これを法的にも確認したのが、1931年12月11日イギリス議会を通過した法律で、一般にウェストミンスター憲章(または条例)と言われているものです。
これは、これまで徐々に対等化していた本国と植民地の間の権利関係を法的にも対等なものと規定し、呼称も植民地(コロニー)から自治領と言われるようになったのです。
このときから大「英帝国」から「英連邦」といわれるようになったのです。
ですから、これまでこのコラムでは植民地と表現したりしていますが、分りやすく書いているだけで、このころからは自治領などと正式呼称が変わるのです。
いずれにせよ、各地植民地の経済力の上昇と、本国のジリ貧によって、大恐慌以後、イギリスは膨大な植民地を維持しきれなくなっていたので、実態に合わせて英連邦諸国と言う緩やかな形に法文化し直したのです。
英連邦の成立は、アメリカ独立の2の舞にならないように、植民地の緩やかな独立を目指した老獪なイギリスの知恵でしたが、その僅か1年後の1932年にブロック経済化を決めたオタワ協定が成立するのです。
これは政治的な独立を認める代わりに、経済面での一種の囲い込み、・・・・・経済面での植民地化の再編成・・・・反動的なものだったとも言えるでしょう。
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