08/29/04

幕末の政治模様6(慶喜擁立と強硬策の継続)

井伊大老が桜田門外で倒れて、久世などの老中の間で一橋派との融和機運が生まれてきました。
さしあたり2年以上に及ぶ謹慎を解いて外部との通信面会を許可しますが、春嶽による一橋の後見職起用の働きかけには、外での人気は別として彼をよく知る役人間では人望がないことを理由に、後見職就任に難を示し、簡単には応じません。
要するに、(頭がいいかもしれないが)「大政を任せられるような人物ではない」と言う理由ですが、後のくるくる代わる行動を見ると「肝の据わらない人物だった」のを見抜いていたのでしょう。
しかし、後に述べる久光の武力上洛時(1862年4月)の建白書に、一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽の大老就任による幕政建て直し要求があったので、薩摩の要求も容れざるを得なくなってついに後見職に就任できることになるのです。
11歳で将軍に就任したのですから、困難な時期の幕政を親政するには幼かった(1846年生まれ)将軍家茂の後見職に一橋慶喜がその年(1862)に就任し、(大老のかわりです)一橋を熱心に将軍に推していた越前の松平春嶽が慶喜の要請で翌年(1863)参与から、政事総裁に昇任します。
こうして薩摩の気に入った形の幕閣人事にはなったのです。
ところが彼は就任して見ると、当初開国論で上洛すると決めていたかと思うとぎりぎりで、攘夷論で出発するなど、外見上は無定見な感じの政治行動が目立ちます。
彼らの就任は人事だけの妥協の産物ですから、却って柔弱な政治はできません。
穏健派の支持者が多くなって政権についたのではなく、汚職やその他の突発的要因(井伊大老襲撃事件のような)で少数派が政権に付くと、却って強硬路線を取ることになることが多いものです。
自民党に飽き足らない勢力に人気のあった、鳩派といわれる三木さんが、田中角栄が金脈事件で失脚して政権につくと却って、そのころ、右よりの政策が次々と採用されたものです。
彼は自民党内の亜流で少数派閥でしたから、却って右翼や保守本流のご機嫌取りをしないとやっていけなかったのです。
彼はクリーン三木として人気があったに過ぎず、左寄り政策が国民の多くの支持を集めて政権を取ったのではないのですから、今の小泉さん構造改革のように世論を味方にして、自民党改革は出来ませんでした。

 



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