08/26/04

幕末の政治模様3(彦根藩の時代認識)(近世以降の近江)

井伊大老も、流石に薩摩には手を出せなかったでしょうが、おたがいに距離をおく関係になっていったものと思われます。
このときまで徳川と島津は蜜月状態でしたが、島津は熱心に一橋擁立運動をしていましたので、この一種の政変・・・・井伊大老の出現と安政の大獄その他の強硬策によって、島津は距離を置き始め、これが後の薩長同盟につながるのでしょう。
せっかく徳川の為に真面目に考えてやっても、「徳川は徳川で団結するんだ」と見せ付けられた不信感が醸成されたのです。
近江商人の活躍からみると、井伊家が何故、時代の流れに抗したかと言うところですが、現在人は、JRの東海道線や新幹線が彦根付近を通る事と、歴史上天智天皇に始まって太平記の佐々木道誉や、織田信長など有名人が近江の国に頻繁に出てくるので、つい「交通の要衝である」という歴史本などに惑わされます。
しかし、江戸時代の東海道は、彦根を通らず鈴鹿越えだったのです。
東海道が発達する前の古代から中世までは、北陸道(北国街道)が大動脈でしたが、(現在の天皇家は、越前王朝であるのはご存知の通りです)江戸期以降は、政治、経済活動は東海道にシフトしており、北陸道はさびれていたのです。
彦根藩は、東山道・中山道と北国街道の分岐点に位置し、戦国時代までは交通の要衝に位置していたのですが、江戸300年弱の間は、物資の移動は船便が主力になっていたことと、(北前船や菱垣廻船などの活躍を思い起こしてください)人の往来は東海道中心時代になったことから、彦根は流通機構(情報)から取り残されていた形跡があります。
井伊家は、第2次長州征伐軍主力として、武田以来の赤備えの甲冑で出兵した時代錯誤性が有名ですが、地勢的に時代の流れに取り残され、体質的にも近代化には疎かったのでしょう。
考えて見れば近江商人とは言っても、前記のように近江は流通の流れから取り残されたために、彼らは地元では商売にならなくなったので、出稼ぎ中心にかせいだものでした。
城に座している者(武士層)にとっては、よほど積極的に情報収集する気がなければ、外界の動きはそれほどリアルに伝わらなかったかもしれません。



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