08/25/04
幕末の政治模様2(井伊大老と安政の大獄)
井伊大老による日米和親条約締結自体は仕方なかったと思いますが、彼の政治的立場は前記一連の人事からみて、反動的流れの中での就任ですから個人的思想がどうであったかは別として、反動的な政治しかなかったでしょう。
一連の考え方は徳川に忠節を尽くし、よそ者に口出しさせないということですから、筋は通っていますが、(以前05/27/03「男尊女卑の思想7(江戸時代)」のコラムで
紹介しました、「会津の家訓」の精神そのものです)それでやれるかどうかが、政治なのです。
「自民党を愛するから連立反対」というのではなく、自民党を守るために公明党や自由党と連立を組むかどうか、野党に転落した方が良いかが政治判断というものです。
今の政治に当てはめれば、「徳川のやることに口出しさせない」とさえ言ってれば、徳川に忠義なのかどうかと言うところですが、忠義という衣をかぶると、「よその意見を聞くなどと軟弱なこと・・・・」と切り捨てるのが勇ましくなってしまうのです。
中国の歴史を見ても、時勢に合わせて相手と和睦しょうとした政治家は、後世売国奴と唾を吐きつけられ、(最近は流石に、衛生上の理由で禁止されたようです)他方勇ましく抗金を唱えた岳飛などは、英雄です。
こうした例は枚挙に暇がないほどです。
会津藩や、井伊家も時代の流れは分っていたでしょうに、徳川の将来がどうなろうとも、後世における自分の名誉を選んだ結果になりました。
結果的にこの強がりが、却って徳川の最期を早めた可能性があります。
井伊大老が就任後の「安政の大獄」と言われる一橋擁立派に対する大弾圧政治は、必然だったかもしれません。
学校で習うのは「安政の大獄」と言って、何となくそのころの不穏分子の処刑だけのようですが、その内容は、一橋擁立派・政敵に対するどろどろした露骨な政治弾圧だったのです。
一橋擁立の主力だった水戸斉昭や松平春嶽は蟄居ですし、刑死した橋本佐内は、春嶽の家来で、慶喜擁立の熱心な運動家でした。
一橋慶喜は大獄に連座こそしていませんが、このとき江戸城登城禁止になっています。
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