08/24/04

幕末の政治模様1(家茂の就任と一連の政治) 

会津の話は措くとして、徳川はそのころ政治の面でも島津家に殆ど頼っていたのです。
幕末の政治模様を素描しておきましょう。
ペリー来航以来の国難に対し、小藩出身者で構成する(老中はおおむね10万石前後でした)幕府政治ではどうにもならなくなって、島津その他当時の識者の主張する、有力諸侯との連携によるしか活路が見出せない状態になっていました。
そうした大方の考えと意見の一致していた一橋慶喜を、13代将軍家定死亡後の将軍として薩摩などが推していたのですが、幕閣は、安政5年(1858年)井伊大老を担ぎ出し、井伊大老は同年家茂を将軍に据えて、あくまで開き直って徳川一家だけで解決しようとする姿勢で臨みました。
大老による将軍家茂の擁立が安政5年(1858年)安政の大獄が安政7年(1860年)その後の文久2年(1862年)京都守護職に会津を起用し、新選組の前身たる浪士隊の募集も同じ年です。
この流れをみると、当時の連合体制で国難に対処しようという世論に対し、徳川だけで対処する、反対者はどしどし処刑すると言う体制構築・開き直り政治だったと言えるでしょう。
この一連の政治は、勤皇だとか雄藩とかの余計な口出しに対する挑戦でしかなく、幕閣による反動体制の宣言です。
小藩出身者ばかりでは発言に重みがなく、(豊臣家の5奉行みたいなものです)幕政がうまく行かないという批判に対しては、35万石の大藩である井伊家なら文句ないだろうと言う腕力論での対抗です。
京都所司代酒井では、島津久光の上洛軍になす術もなく、幕府の権威が京で失墜してしまったのに対し、それならば、と言うことで、23万石と言う大藩の会津藩を所司代の上に新たに「守護職」という職務を創設して担ぎ出します。
彼は、就任後期待に応えて1000名と言う大軍を率いて上洛し、京・黒谷に駐屯させ、幕府武力を誇示します。



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