08/19/04
旗本と与力17(与力の石高)造幣局
与力の平均石高200石の家禄が、どの程度であったか見るために、多くの人の知っている長州藩士の家禄と比較して見ましょう。
幕末の勤皇の志士は、下級武士が中心でしたが、その中では、上級の武士として有名な桂小五郎(後の木戸孝允)の石高は養子先で150石、家柄の良さをほこった高杉晋作が最高に出世して奥番頭役になった時で、やっと160石でしかないのです。
ただし、長州藩は関が原の敗戦で、領地を3分の1に減らされているので、家臣を全員解雇しなかったとすれば、家臣の家禄も平均して3分の1になっていたことになります。
そう考えれば、普通の藩に引き換えると、3倍の石高と言えなくもないです。
これに対して与力の石高を見ますと、大塩平八郎の乱で有名な大塩平八郎は、天満与力ですが、彼の石高は200石でした。
江戸の与力が八丁掘の役宅にまとまって住んでいたので、「八丁堀のだんな」とか呼ばれていたのに対し、大阪では天満に・・・現在の造幣局の付近だったらしいです・・・まとめて3万坪の屋敷地があったので、天満与力と言われます。
ちなみに造幣局の由来を知っている人は、知っている(当たり前)と思いますが、ちょっと紹介しておきましょう。
毎年千葉の司法修習生は、検察庁の見学で造幣局に行っていたのですが、・・・・・これも検察修習と造幣局とどういう関係があって毎年大阪まで見学に行くようになっていたのか知りませんが・・・・・世の中知らないことだらけです。
昨年から、合理化を図るために見学を3庁会(すなわち裁判所、検察庁、弁護士会)合同見学に切り替えましたので(修習生にとっては回数が3回から1回に減ることになりました)、以下は弁護士会から引率・・・付き合いで同行した若い弁護士からの受け売りです。
彼が行ってきた話では、
「大阪の陣で、滅亡した豊臣家の金銀がその辺に埋められていると言う伝説があって、」(それとどういう関係があるか知りませんが、・・・・これは私の感想です)ともかくそこに
「造幣局を持ってきたらしい」のです。
徳川家は無二無三に豊臣家を攻めたのは、経済的に苦しかった徳川が、何とかして豊臣家の無尽蔵とも言われた金銀の獲得にあったと言う説もありますが、滅ぼして見ると全然?無かったというのです。
(けちで有名な家康ですから、何も無かったことにしているだけかもしれませんが・・・・・・)
それで、何百年にわたって豊臣家の隠し金銀(いわゆる埋蔵金)のうわさが絶えないのですが、明治政府は、その始まりからして、お金がなくて大変でしたから一縷の望みを抱いていたのかもしれません。
話を与力の石高に戻しますと、大方の与力は、200石前後(天満与力の役宅は平均500坪でした)ですから大したものです。
その上、02/20/04「与力 2(ワークシェアリング)」で紹介しましたように、表向きの収入の他にいわゆる役得として、大名家その他関係筋からの付け届けがあって、実質3000石級の旗本程度の収入があったらしいのです。
それだけの収入があっても、前々回のコラムで紹介したように、旗本のように大勢の家来を召抱える義務もなかったのですから、経費率が低くてとても恵まれたものでした。
大塩平八郎の乱を、歴史上、何かと「天満与力の反乱」と役職付きで言われるのには、幕府直属の役人ではあっても、旗本とは別格(臨時雇い)であると強調したい意図が働くからでしょう。
こうして、徳川滅亡まで、無役の旗本は、食うに困りながら、「あれは「与力(臨時雇い)だ」と蔑んでいたのですが、その与力が裕福な生活をしていたのですから、皮肉なものです。
与力は、臨時雇いですから、与力という現役についていなければ浪人になり、与力とは言いません。
ですから、旗本のように無役の与力はいなかったのですから、みんな裕福でした。
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