08/18/04
教育制度と逸材(御家人の帰属意識・・・・勝海舟の場合)
教育制度については、09/23/03「教育改革・・・・明治維新と学制改革 1(江戸時代の教育/私塾の活躍)」以降のコラムで、約1ヶ月にわたって連載していますので参照してください。
また地方自治と教育制度の関係も、中央集権的教育制度批判として10/02/03「地方自治と人材3(憲法38)」等でぱらぱらと書いています。
何時の世でも、中央でいい思いしていると知恵、・・・・そつなく学会や各種懇談会で司会したりして出世していく知恵とでも言いましょうか・・・・が発達しますが、歴史に残るほどの偉業、従来路線と違った骨太の意見を展開することには向かなくなるようです。
個人名を出して言うのも気が引けますが、芸大学長として公人ですので、言わせてもらうと、平山郁夫氏の絵画はどうでしょうか?
とてもうまい(優等生が大人になったのだなあ・・)と思いますが、
「芸術ってこういうものなの・・・・?」
というのが私の感想です。
話が横に行き過ぎますので、戻しますと、中央にいると出世その他の小回りに気を使いすぎて、骨太の人材が育ち難いのですから、旗本から大物が出ていないとしても、人材が無かったとは言い切れません。
ともかく江戸300年弱の間に、たいした人材が出ていないし、幕末騒乱期に活躍した人材は全てと言っていいほど、在野に近い人材ばかりです。
幕臣では勝海舟を無視できませんが、彼の父は、子母沢寛の小説で有名ですが「勝小吉」と言い、幕臣とは言え、わずか40石取りの御家人で、年間手取り16石=40俵しかなかったのです・・・・年収80万円前後ですから、今でいえば、国民年金をもらっている程度の保障でしかありません。
今では、月6〜7万では、老人が余生を送るとしても不足するのですから、これでは、時代が違うとは言っても現役の一家を養うことは不可能です。
この時代にも、食べるだけでなく結構子供の学費など費用はかかったのです。
子供の海舟は、あちこち弟子入りしたりしていますし、その学費捻出のためにか、借りた本の写本を作って売ったか貸したかして稼いでいます。
小吉は、小普請組だった(無役の溜まり場)ので、この程度の身分の人にとっては、せっかく養子に入ったと言っても年金受給権と、一応幕臣ですから、場合によったら役職につける可能性があると言う程度の地位でしかなかったでしょう。
要するに幕臣と言っても、幕末ころになると、家禄だけでは食べていけなくなっていたのですから、役についていない人にとっては、小遣い程度の年金・・生活保護的な禄ををもらっている程度のありがたさしかなく、徳川の家来と言うよりも遠い親戚みたいな、「なんかあったら頼れるかな・・・・?」という気分だったのではないでしょうか?
小吉は、養子になってから、かなり任官運動したらしいのですが、どうしても役職につけず、いったん家出してしまい、何年か放浪していました。
食い詰めて帰ってから再度任官運動してもやはりだめで、開き直って(これは私の感想です)アウトロウに身をおいて無頼な(それなりの稼ぎをして)生活を送っていたのです。
このように海舟は、権力から疎外された家庭で育ちましたし、もちろん最高学府の昌平黌を出ていません。
勝海舟は、こうした帰属意識からか、最初薩摩島津家に仕え、斉彬推挙で時の老中安部正弘に見出されその後は幕臣となっていくのですから、本来の幕臣1途と言うのではないのです。
そのころの島津は心底幕府派(佐幕と言いました)でしたから、有能な人材を幕府に推薦していたのです。
その推薦がなかったら、西郷隆盛や大久保らと同じ薩長閥の一員として、明治政府の重鎮になっていたかもしれません。
こうした経歴(人脈)があってこそ、第2次長州征伐の和睦全権大使、江戸城明渡しの西郷との直談判が出来たのです。
海舟は後でこそ、幕臣に戻っていますが、就職の最初が島津家だったと言う重要な点を無視できませんし、小吉以来のアウトローの環境に育ってこそ、自由な発想や改革の気概が(処世術もしたたかでした)生まれたのでしょう。
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