08/17/04

教育制度と逸材(官学と人材)改革の周期

旗本から人材が殆ど出ていないことは、幕府の学問所「昌平黌」や、その後を受けた東大から歴史に残る人材が殆ど出ていないし、これからも多分出ないだろうと思われる(私の偏見です)のと似ていますので、あながち旗本に人材がいなかった証拠にはなりません。
昌平坂学問所から、開成南校、更に帝大に変わっていった歴史は、10/10/03「教育改革15・・・・・明治政府と学制改革(大学とは) 」のコラムで紹介しました。
2002年には、東大からノーベル賞受賞者が出ましたが、これとても巨額の資金を使って大規模な(スーパーカミオカンデ・・・というのです)装置を実現したと言うものですから、根回し上手・組織運営力が基本であって、本来の創造力に対する賞とは、どこかずれています。
江崎玲於奈氏は、東大入試が無かったので入れたと述べていますし、過去(科挙に始まって)から現在にいたる試験制は、逸材を選抜するのに適していないのでしょう。
科挙であれ、東大であれ、乱世の雄・逸材を求めたものでなく、政権の安定を前提に優秀な官僚を求めた制度ですから当たり前です。
官学は、乱世の雄になる人材は、弾き飛ばしてしまう仕組みになっているのでしょう。
現状維持(若干の漸進的改良を含みます)を前提とした人材養成方法は、優秀なイエスマンばかりとなって、権力者には都合のいい話です。
こうした仕組みは短期的にはいいでしょうが、時代は絶え間なく動くのです。
戦後50年で節目がきましたが、江戸時代にも似た間隔で改革をしているのです。
大阪の陣(1615)から数えると新井白石の改革から始まった吉宗の改革までを見ると90年しかないのです。
徳川幕藩体制の固まった家光時代から見れば、もっと短いことになります。
ちなみに家光は3代将軍をついでからも、父秀忠が大御所政治をしていたので、自分でやるようになったのは、1632年秀忠死亡後です。
1634年に老中制度を作り、35年には武家諸法度、37年には島原の乱と続きましたので、徳川の体制・平和が確立したのは、1640年ころでしょう。
改革と言うものは、(今でもそうですが、)いきなり出来ませんので、その10年以上も前からどうにもならない問題が生じていた筈ですから、問題発生は家光から数えると50年前後で起きていたと言えるでしょう。
わずか5〜60年で幕府中枢から人材を出せず、在野から新井白石を迎え入れざるをえなくなり、それでも足りなくて将軍自体を紀州の野育ちの吉宗に託すことになったのです。
新井白石の改革および白石の経歴は、「01/28/04江戸時代の相続制度 4(武家)(毒殺の流行)」前後のコラムで紹介しましたが、1709年ころのことです。
長期政権を目指すならば、利口なイエスマン(秀才)ばかりでは、かえって政権を危うくするのではないでしょうか?
官学の問題点については、「10/10/03 教育改革15・・・・・明治政府と学制改革(大学とは) 」など前後の連載で書きました。



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