08/16/04

旗本とは 2(与力16)

こうして多勢の浪人(失業者)が出て、再就職に苦しんでいるときに、与力はその中から選抜されたのですから、かなり有能だった可能性が高いでしょう。
徳川政権が次第に行き詰まる中で、何万人もいた旗本、御家人から改革の旗手が現れず、傍流の与力から、大塩平八郎のような人物が生まれたのは、こうした歴史があるからかもしれません。
大岡越前や田沼意次も紀州から連れてきた人間で、もともとの旗本ではありません。
旗本というのは、1見すごいようですが、14日のコラムで書いたように本営の旗下に詰める猛者ではなく、長い戦国時代を通じて、大名にまで上がりきれなかった、負け組みをまとめて旗本と美称していたに過ぎないのです。
野球で言えばレギュラー、相撲でいえば、十両未満に到達しないうちに、戦国時代が終了してしまったようなものです。
300諸侯と言うのは実数ではないにしても、明治の廃藩置県当時の大名家は270家といわれていますので、徳川初期も似たようなものだったでしょう。
100年以上の勝ち抜き戦が(戦国時代)終わったところで、番付の270番にはいらなかったと言えば、野球のレギュラー以下でしょう。
武田勝頼や明智光秀、柴田勝家など途中で消えた有名人がいますが、高校野球で言えば有力候補が優勝候補に途中であたって姿を消してしまった部類に入るのでしょう。
これらの人たちは、本来大名級の実力者ですから、彼らが姿を消した結果の徳川期の大名は、徳川にくっついていたので実力以上のかさ上げがあったともいえます。
こうして見ると、勝ち組みに属しながら、大名まで上がれなかった旗本は、かなりレベルが低かった可能性が高いのです。
自分のレベルが低い分だけ、「あいつは与力だ」と見下したかったかもしれません。
しかし、無役の旗本から馬鹿にされた与力は、歴代、各種奉行に仕えて専門化が進み、(勘定奉行系は財政の、吟味筋与力は刑事事件に詳しくなるという具合です。)実力を蓄えていったのです。
02/20/04「与力 2(ワークシェアリング)」のコラム以下で紹介しましたが、彼らは、子供のころから見習いに出るのですから、専門化が進むばかりか役職も途切れることがありません。
このように官学の宿命もありますので、あながち旗本に人材がいなかった証拠とは言えませんが、平賀源内、青木昆陽、中江藤樹、熊沢蕃山その他、(農業改革などの実学分野でも、あるいは以前10/05/03「教育改革・・・・・明治政府と学制改革(私立教育機関)10」で 紹介した幕府天文暦方でも)歴史に名の残る多くの人は、旗本から殆ど出ていないのです。




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