08/15/04
旗本と与力15(大阪の陣と武士の時代の終焉)
旗本対して、与力は軍人としての採用ではないので、常備軍として一定の家来を抱える義務は無かったように思います。(ただし、これは私の推測でしかありません。)
その割には、石高が高いのはもしかしたら、普通の武士とは違う特殊技能があったのかも知れません?
関が原は天下2分しての合戦でしたから、武士の約半数が、負け組みになったので計算上半分が浪人したことになります。
上杉や毛利のように領地縮小でおわったところもありますし、島津のようにそのままのところもありますが、おおざっぱな話です。
その分、山之内一豊のように領地拡大した大名も一杯ありますし、彼らは石高に応じて、兵力充実の義務がありましたので、有能な武士はそれぞれ再就職できたはずです。
私が建設業者の大型倒産は、マクロでみれば、失業問題に大きな影響が無いと主張するのと同じ構図です。
この関係は「10/19/02会社更生法と日本経済 1(大手ゼネコン倒産の場合)」以下のコラムで連載しましたので参照してください。
大阪の陣の後では、真田幸村など思想信条の理由で再就職しなかったグループは壊滅(戦死)し、その他の有象無象は生き残ったものの、再就職の機会が閉ざされました。
大阪の陣では鎌倉時代の蒙古襲来で活躍した武士が恩賞をもらえなかったのと同様に、徳川方についた大名は、恩賞としてもらう領地は殆どありませんでした。
大阪など豊臣直轄地は天領になったのですが、大阪城代や勤番侍の数は、かつての豊臣家が抱えた兵力とは比べ物にならない少数です。
しかも、彼らはもともと徳川の譜代の臣であって、出張として江戸から来るだけです(だから勤番といわれるのです・・・単身赴任が中心でしょう)から、新たな人員募集の必要が無かったのです。
大阪の陣の後では、領地拡大による新規召抱えは無く、再就職のチャンスは無かったのです から、負け組についた武士は大変なことになりました。
そのとき、両陣営の需要があって、武士の数は最大に膨張していたのでしょう。
それまでは、浪人しても能力さえあればチャンスのある時代が続いたのですが、大坂の陣の後は縮小に転じたのですから、その変わり目に浪人した人は不幸なことになりました。
時代の変わり目で、大きな家禄を既得権にした人は運が良かったことになります。
02/09/04「江戸時代の相続制度 9(明治民法の時代錯誤性)」で紹介した、徳川1門の越前宰相家(結城秀康・・・忠直)のように、浮沈を繰り返した家柄もありますし、上杉のように縮小する1方の大名もいますので、その代わり新しく家を興したり領地拡大の大名(会津の保科家など)も出てきます。
その都度チャンスが個別にはあったのですが、私のいうのは構造的なマクロの話です。
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