08/14/04
旗本とは(与力14)
徳川政権が始まったころには、豊臣方についた大名の家来、(宮本武蔵もその一人です。)生き残った大名家でも改易が一杯ありましたので、犯罪予備軍の浪人者が一杯いました。
浪人を与力として起用すると、犯罪予備軍が逆に犯罪抑止機関になるのですから、一石2鳥と言うわけです。
こうして失業対策事業的な意味もあり、しかも不浄を扱うもので、本来の武士の仕事ではないと言う意味から、与力は徳川の直属の武士(陪臣ではないの)ですが、軍人たる旗本・御家人とは区別されて最後まで与力と呼ばれたのです。
旗本の語源は、ご存知のように、戦陣で主君に近侍する馬廻り役が発展して旗本(本営の旗の下にいる)と呼ばれるようになったもので、軍事用語です。
ただし、旗本8万騎とか言われますように、(御家人を含めても1700年ころの実数は、22600人程度だったらしいですが、・・・・)そんな膨大な数を1度に動かせませんから、本来の軍事単位としては成り立ちません。
ちなみに、近代国家の軍制の最大単位である師団の構成人数は、アメリカ軍で1万5000人、ソ連で一万人、自衛隊では甲編成で7000人前後、乙編成で5〜6000人前後しかないのです。(戦前は1万人前後あったと思いますが、私には正確にはわかりません。)
現在の師団の中身を見れば分るように、師団と言うのは教育から輜重まで抱えた一個の完成型ですから、本当の戦闘員の数ではもっと少ないのです。
旗本と言うのは戦闘員であって、輸送部隊(人夫)までを言うのではないのですから、その規模としては適正な数でないことがわかるでしょう。
旗本御家人をあわせて2万人あまりしかいないといっても、後記のとおり、その旗本は家禄に応じて一定の郎党を引き連れて参戦するのですから、結果的な動員兵力として見れば、8万騎といってもつじつまが合うのです。
こうしてみると、これだけの兵力が旗下にひしめいていたのでは、かえって足手まといで戦いにならないでしょうから、徳川政権成立後の旗本は、徳川の直臣のうち、大名でないものと言う程度の意味になっていたのでしょう。
与力は、ピンチヒッターみたいですし、しかも不浄(犯罪者)を扱うので嫌がられたこともあって、その職務の割には石高が大きいですよ。
旗本は町奉行などになれる3000石と言う大身家柄もありましたが、200石前後が最も多く、300石以上の旗本は、全体の5%くらいしかいなかったようです。
旗本の家禄は軍人としての石高ですから常に一定の軍事力を備えていなければならず、大多数を占める200石の旗本の例では、槍持ちその他で5人の常備軍を備える義務がありました。
謡曲「鉢の木」で有名な「いざ鎌倉」の精神が要求されていたのです。
知行取りの旗本の場合、4公6民の時代でしたから、表高200石で手取り80石となります。
1石は10斗ですから、800斗すなわち8000升になります。
度量衡の換算を大雑把に考えて1升=1.5キロと単純に考えると、現在の価格そのままでないとしても、(今のようにクーラー、電話、電気その他生活費がかかりませんので、単純物価比較はできないという意味です。)おおよその年収・生活水準が分るでしょう。
その収入で、従業員5人を養い領地経営もするのですから、大変です。
その家臣も譜代ですから、丁稚奉公人みたいに食わせるだけでなく、家族の生活を見るだけの収入を保証しなければなりません。
しかも、今のように通勤ではなく屋敷内の集住していたのですから、今の社宅生活どころではありません。
ちなみに寛永2年に定めた屋敷割では、2〜300石で600坪、400〜七00石で750坪というもので(最大の7000〜1万石で2500坪)この中に家来の家まであったのですから窮屈でした。
ついでのついでに忠臣蔵で有名な吉良こうずけの介は、家禄4200石程度でしたから、屋敷は、2000坪です。
2000坪もあると、どこに家来の家があり、どこに吉良の住まいがあるかの絵図面が必要だった理由も分ります。
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